ロシア民謡をカヴァーしたフランク永井”モスクワの夜は更けて”は1962年に発売されました。この歌が気に入って50回以上聴いています。何度聴いてもあきません。

 フランク永井の軽くスウィングする歌声と、詩心たっぷりの歌詞、楽しいニューオリンズジャズの演奏で自然に体が動いてきます。

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 フランク永井”有楽町で逢いましょう”
 
 ウイキより
 
 フランク永井(本名 永井清人)は1957年(昭和32年)の有楽町そごう(2000年に閉店)キャンペーンソングであった「有楽町で逢いましょう」が空前のヒットとなり、さらに既に発表していた「東京午前三時」「夜霧の第二国道」も相乗ヒットとなり、一躍トップスターとなる。
 1959年(昭和34年)のビクターの歌謡曲(流行歌)レコード売上で「夜霧に消えたチャコ」が年間1位を獲得したほか、トップ10内に5作がランクインした。
 同年、自ら見出した松尾和子と共に歌った「東京ナイトクラブ」は、デュエットソングの定番として2000年代においても歌い継がれている。
 
 フランク永井は幼少時に父を亡くしたが、母が映画館経営をしていたため、不自由なく育つ。幼少時から歌手に強い憧れがあり、昭和26年ごろに東京へ出て就職していた兄を頼り上京。
 進駐軍のキャンプ地でのトレーラー運転手、アルバイト生活を経て、アメリカ軍のクラブ歌手として月100ドルで契約する。さまざまな「のど自慢大会」に出場し、「のど自慢荒らし」の異名をとったが、1955年(昭和30年)に日本テレビの『素人のど自慢』の年間ベストワンに選ばれたのを機に、ビクターと契約。同年9月に「恋人よ我に帰れ」でデビューした
 ジャズを得意としたがヒットに恵まれず、先輩歌手であるディック・ミネの勧めや、作曲家・吉田正との出会いを期に歌謡曲に転向した。