芝居で人に褒められたい、は邪心か | カラサワの演劇ブログ

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演劇関係の雑記、観劇記録、制作日記、その他訃報等。観劇日記は基本辛口。これは自戒とするためでもあります。
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演劇論、みたいなものがTwitter上によく流れてくる。読むとなんか凄い高尚というか感心極まりないことが書かれていて、私など俗物はオソレいって、演劇なんぞに関わっていてすみません、という気分にさせられてしまうから、あまり読まないようにしている。しかも大体そういう人は難しい言葉づかいをしていて、さっと読んだだけではわからないのである。

 

「真の演劇とは剔抉した人間の負性の社会における存在証明の戦いを描くものでなくてはいけない」

 

という文章を以前読んだが、最初は何のこっちゃら、元が無教養なのでさっぱりわからなかった。どうも

 

「ダメなボクでも生きてていいんだ、と主張するのが演劇」

 

ということを言っているんだとわかったが、ならそう言った方がダメな奴にもわかりやすいと思うのだが。

 

こないだ、RTされてきて目にとまったのは

 

「人に褒められよう、とかうまいと言われようと思ってやっている演技はまだだめで、邪心がつけいっている。演技とは自分自身のスキルアップとの戦いなのだ」

 

というものだった。うろ覚えだが大意は間違っていないと思う。例によって文言はもっと難しかったが、均せばまあ、そういうことだ。

 

日本人はなぜか「己れとの戦い」という言葉が好きで、「求道」などと書かれた額が武芸の道場に掲げられていたりする。格闘技である柔道ですら

「勝つと思うな思えば負けよ」(関沢新一作詞『柔』)

なんて言葉で「他者との戦いではない」ことを強調したがる。

 

飛鳥時代に伝わった仏教は基本的に争闘を否定している宗教で、それが戦争を商売とする武士たちの間で広まったことにより、戦いを正当化する必要性が生じて、このような考え方がひねり出され、定着したのだろう。さらに言えば仏教の「空」の思想は本来的に無差別・無分別なので、突き詰めれば敵も味方も、己れも他人もない。したがって敵との戦いはすなわち己れとの戦いになるわけだ。

 

この考えが敷衍されて、とにかく評価軸を他人に置くことを目標とするのは俗なこと、という“常識”が蔓延した。その結果、日本のスポーツ競技というもの、ことに対戦競技は大きく世界から遅れることになった。他者を相手にする場合は目標や対策が立てやすい。しかし、自分の内面などというとりとめのないものを相手にしろ、などと言われても、なかなか焦点(目標)を絞り込めない。対戦相手のことだけ考えていればいい外国選手に対し、自分の内面という屈服させようのない相手と対峙しなければいけない日本選手は、オリンピックなどで「本番に弱い」というのが定評となってしまった。これを突き詰めていうと

「モチベーションを保ちにくい」

のである。

 

羽生弓弦が、自分にはライバルの選手が必要、と言い切り、

「相手が誰であろうと絶対勝つ!」

を信念としているのは、さすが新世代の選手であり、戦う相手が自分の心などではなく、同じ競技に出場するライバル選手である、という“スポーツの本質”を見抜いているからであろう。

 

演劇の世界でも同じである。演劇は誰に見せるためにあるか。それは演技者の内面にいる誰か、などではない。ダイレクトに言えば、観客であり、観客を楽しませること、という一点のために演劇というのは存在しているのである。つまり、演技者(役者)の存在意義というのは観客に認められる、つまり褒められ、拍手を受けること、なのである。つまり、全ての演技、演出は観客を満足させ、その結果役者が賞賛を受けることを目的として組み立てられるべき、ということになる。

 

もともと、役者というのは自我意識が肥大した化物(伊丹十三の言)と言われる。自分の存在を他者に示したいが故に、舞台に立ち、スクリーンの中で演技をするのである。演劇や映像に携わる者は、まず、その役者のモチベーションを理解し、そこを満足させてやるべきなのだ。作品の中で観客ウケのいい、いわば“見せ場”を作ってやる、ということである。その場合において初めて、役者は最高の演技を見せることだろう。

 

人に褒められることを欲せず、うまいと感心されようとせず、淡々と克己のために行う演技で成立している舞台などが面白いわけがないのである。もともと、人前で舞台に立ちたい、と思うような人間はたいがいがナルシストであり、そのモチベーションはなにを差し置いてもまず、目立ちたい、褒められたい、なのだ。

 

アメリカの心理学社エイブラハム・マズローは人間を突き動かす欲求を五段階に分けた。そして、人間はその下層の欲求が満足して初めて、一段上の欲求を欲するようになる、というものである。

 

そのうちの三段階は生存に必要なもので、食事、睡眠などの生理的欲求、次が雨風を防ぐ家や寒暖を調節する衣服、健康などの安全欲求、そして社会集団に参画したいという帰属欲求。この三つが満たされて初めて、人間は内面の欲望を求めるようになる。

 

その最初の段階が「尊厳欲求」。つまり人から認められたい、褒められたいという、ここで取り上げた欲求で、これを欲することを別名「承認欲求」ともいう。

 

そして、さらにその高次の欲求としてマズローが上げるのが「自己実現欲求」。ここで初めて人間はその内面と向き合い、あるべき自分になりたいと欲するようになる。マズローの五段階欲求論の原則が、

「その下層の欲求が満足して初めて、一段上の欲求を欲するようになる」

ということに留意してもらいたい。つまり、承認欲求が満たされ、他人(観客、同業者、評論家など)からの賛辞を十分に受けられるようになってはじめて、次の段階の欲求、すなわち自己実現欲求に移行できるのである。人に褒められないうちは「自分の演技を極める」なんてことは無理なのだ。

 

役者はまず人にうまいと褒められるよう努力すべし。その後でなら、自己の内面とだろうと心とだろうと向き合うのは自由である。褒められもしないのにそんなことを目指すのは僭上の沙汰と言うべきことである。