カラサワの演劇ブログ

演劇関係の雑記、観劇記録、制作日記、その他訃報等。観劇日記は基本辛口。これは自戒とするためでもあります。
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(注意:ネタバレがあり、ミステリのラストをバラしています)

 

ロサンゼルスの名士である精神分析医、レイ・フレミングは若い愛人との生活のため、財産家の妻、キャロルを殺害。女優である愛人に妻の扮装をさせてアリバイを作る。しかし、完全犯罪だったはずのその計画に、ただ1人、疑いを抱いたのはロサンゼルス市警の警部、コロンボだった……。

 

刑事コロンボの第1作、というより原型になった第0作の『殺人処方箋』(1968)は、舞台用の戯曲を元にしたテレビムービーであった。従って、ドラマのそこかしこに舞台の香りが残っている。犯人であるフレミング医師のマンションが、窓外の風景が書き割りであることがミエミエのセットであるところもそうだし、コロンボがその部屋のドアを開けるところで、セットのドアが、安っぽい、ベニヤ板がきしむような音を立てて床にひっかかるのを、コロンボ(ピーター・フォーク)が苦心して“何事もなかったかのように”閉めている。単純ミスであり、撮り直せばよかろうにと思うのだが、そのままOKにしてしまったのは、舞台ではありがちなこと、なのだからだろうか。ちなみに、このきしむ音は日本語版では(当然ながら)カットされてしまっている。DVDをお持ちの方は英語バージョンにして聞いてみるといい。コロンボがクリーニング屋の相手をするシーンである。

 

いや、そんなことよりもっと大事な舞台的特長が、後の、テレビシリーズとなったコロンボに影響を与えている。

 

……つまり、コロンボが単独で捜査を行う一匹狼である、ということである。これはおかしな話で、コロンボはまがりなりにもルテナント(警部補)であり、れっきとした管理職である。事件の捜査の責任者なのだ。本来であれば捜査チームの取りまとめが役割で、確認のために使った写真を被害者の自宅に返しに行く、というようなハンパ仕事は下っ端にやらせてしかるべきはずである。にも関わらず、コロンボはそういった捜査関係の仕事をほとんど彼一人でこなしている。警察内部でのはぐれ狼、というキャラクターは以前にもないではなかったが、そういうキャラクターは本当に警察権力とは無関係に、個人として捜査を行う。しかしコロンボは、あくまで組織の一員という性格は持ちながら、それこそ証拠の返却などというチマチマした雑務仕事まで自分でやっているのである。これは何故か。

 

……舞台劇では、役者の数をそう出せないからだ。

 

まして、この『殺人処方箋』は、大劇場付きの芝居ではなかった。巡業芝居として、アメリカ各地を5ヶ月かけて回る旅芝居用に制作されたのであった。舞台版の脚本をUSのAmazonで取り寄せて読んでみると、登場人物はたった七人。それも、さっき出てきたクリーニング屋の店員のような、セリフが二つくらいしかない端役まで含めてで、主要登場人物はフレミング医師、その妻クレア、愛人のスーザン、そしてコロンボの四人だけ。クレアを演じたのは『奥様は魔女』のサマンサの母親・エンドラ役で有名なアグネス・ムーアヘッドで、こういう役は十八番。セリフも多いが、被害者役なので当然のことながら前半1/3で姿を消す。

あとはずっと、ほぼ三人のみで(フレミングの秘書役のミス・ペトリーはずっと舞台の端の机に座っているだけ)進行する、本当の“小劇場”芝居なのであった。

 

従って、コロンボも、警部補とはいえ部下をぞろりと引き連れて捜査にやってくるわけにはいかなかった。話の中だけで出てくる上司や同僚を別にしても、残りの警察組織をひとまとめにした象徴的キャラクターとして、なんでもひとりでまかなわなければならなかった。……これが逆に、コロンボというキャラクターの特異性を際立たせることになった。そして、制作者たちはその特長を、テレビムービーの際にもそのまま残すことにしたのである。

 

これもコロンボファンにはよく知られていることだが、『殺人処方箋』は、最初はテレビのミステリー劇場向けの、1時間程度のドラマだった。『Enough Rope』(1960)というタイトルで、フレミング医師を演じたのは『大アマゾンの半魚人』などのホラー映画で主役をやっていた、リチャード・カールソン。コロンボ役は性格俳優のバート・フリードだった。フリードの顔は『事件記者コルチャック』などで確認できるが、後のコロンボとはかなり違っていたらしく、当のフリードが後年、コロンボをテレビで見て、自分が演じた役とわからなかったというエピソードが残っている。

 

脚本家のリチャード・レビンソンとウィリアム・リンクはこの作品を1962年に、巡業用の舞台劇に仕立て直したのだが、幸い上記アグネス・ムーアヘッドをはじめ豪華なキャストが実現し、フレミング医師は『第三の男』のジョセフ・コットン、愛人スーザン役はコットンの実の奥さんのパトリシア・メディナ(後に東宝特撮の『緯度0大作戦』でも共演している)、そしてコロンボ役は『駅馬車』『風と共に去りぬ』などで知られるアカデミー賞俳優、トーマス・ミッチェルが演じた。

 

このミッチェルが、コート、葉巻、そしてネチネチしたしゃべり方など、後のコロンボの原型を作り上げた。全米どこでも、この舞台のカーテンコールで一番大きな拍手を受けたのは、主役のコットンではなく、脇のコロンボを演じた70歳の老優ミッチェルだったという。

 

従ってこのピーター・フォーク版の『殺人処方箋』はテレビドラマの翻案の戯曲の再テレビドラマ化、というややこしいことになるわけだが、人気のコロンボ像を作り上げた功労者のミッチェルは、その役を最後に病に伏し、舞台を演じた1962年の暮に亡くなっていた。原作者の二人はミッチェルのイメージを引きずっていたようで、代役にも老優をキャスティングしたがったようだが、ネット局のNBCが推薦したのが当時40歳のピーター・フォークだった。半信半疑でそのキャスティングに従ったウィリアムとリンクだったが、その結果は今更ここで語るまでもない。フォークは舞台でミッチェルが着ていたオーバーコートをレインコートに変え、垢染みたフェルト帽というのを省略したが、その他の演技は戯曲台本を見る限り、ミッチェルのものをなぞっている。

 

テレビ版は何故か登場人物のファースト・ネームだけが変更されており、戯曲版のロイ・フレミングはテレビではレイ・フレミングとなり、その妻クレアがキャロル、スーザン・ハドソンはジョーン・ハドソンになっている。コロンボだけは戯曲もテレビも“コロンボ”だけで変わりなし……なのだが、何とこの戯曲の舞台はロサンゼルスではなく、ニューヨーク。コロンボもロス警察ではなくニューヨーク市警の警部である。テレビの舞台がロスになったのは、単にニューヨーク・ロケは金がかかるというみみっちい理由だったらしい。してみると、局がフォークの起用を熱心に勧めたのも、あまり有名な俳優を使うと金がかかるためだったのかもしれない。なにしろ、原作者たちはビング・クロスビーを

希望していたのだ。

 

アメリカでは、ロサンゼルスは映画の街、ニューヨークは芝居の街というイメージである。テレビで新人の映画女優という設定のジョーンだが、舞台でのスーザンは舞台女優。コロンボが二人の関係に気付くのは、フレミングの書棚に、演劇関係者から送られたと思われる、スタニスラフスキー・システムについての本があったからだった。舞台は三幕八場。フレミングのオフィスと彼のマンション、そして一場だけコロンボのオフィスが登場。テレビでは映画の撮影スタジオにコロンボが踏み込んできて、そこでジョーン・ハドソンを問い詰め、自供させようと迫る(この脅すような態度が、後のコロンボを見慣れているファンにはやや、違和感があるようだ。私はこっちの方が好きなのだが)が、戯曲は自分のオフィスにハドソンを呼んで、そこで取り調べようとするのだ。

 

場所や設定が戯曲用になっている他は、ほとんどテレビ版と同じようにストーリィが進んでいく。いきおい。こっちも頭にテレビ版のシーンを思い浮かべながら読んでいくわけだが、最終幕の最後の場(フレミングのオフィス)で、あっと驚くドンデン返しがあった。テレビ版のラストとは全然違うのである。

 

もちろん、犯人はフレミング医師である。だが、その犯行がバレる過程がテレビとは180度違う。テレビでは、愛人のハドソンと連絡がつかなくなったフレミングが、彼女の家に行ってみると、プールサイドで彼女の死体が取りかたづけられている。コロンボは、彼女を追い詰めて殺したのは自分だ、とフレミングにあやまり、しかし、あなたも結婚しようと思った愛人が死に、これでせっかく奥さんを殺した意味がなくなってしまったのだから、自白したらどうですと勧める。フレミングは笑って、

「別に大したことじゃないさ。僕は彼女を利用しただけだ、愛してなんかいなかった。あとで彼女だって始末したかもしれない」

と勝ち誇るように言う。しかし、そのとき、

「そこまで計画していたの、レイ」

という声が響く。彼女自殺そのものがコロンボの罠で、実はハドソンは生きていて、彼のその“本心の”言葉を聞いて失望し、自供する。フレミングはコロンボにだまされたこと、自分が自分で墓穴を掘ってしまったということを知り、愕然として立ちすくむ……という筋立てである。

 

しかし、戯曲版は全く異る。、ハドソンの、フレミングを守っての死を伝えたコロンボが、フレミングに祝いの言葉を投げるところから、ちょっと仮に訳してみよう。

 

コロンボ「おめでとうございます、先生」

 フレミングの頭がピクッと痙攣したように動く。目は怒りに燃えている。

コロンボ「いえ、あなたはもう安全だ、と言っているんです。……そうでしょう? 彼女はあなたを有罪に出来る唯一の証人だった。素晴らしい幕引きじゃないですか。私はもう、あなたに指一本触れられない。他の誰もね。あなたは天下晴れて自由です。先生……あなた、お勝ちになったんです」 

 フレミング、自分の足もとをにらむようにしながら

フレミング「……君はこの件に責任があるぞ……君が彼女を殺したんだ!」 

コロンボ「(冷たく)私が殺したんだとすれば、私は先生にお礼を 言われなくちゃなりませんな」 

フレミング「(苦々しく)なぜ彼女を放っておかなかった? 私をつけ回すだけで充分だったろう。彼女が何をした? 君は彼女の何を疑っていたんだ?」 

コロンボ「(怒る)お黙んなさい、私に指図はいらんお世話だ。(顔をフレミングの前に突きつける)なるほど。確かに私は彼女の死に責任があるかもしれません、先生。私はそれを一生背負っていくつもりですよ。しかし、もうひとり、誰かをお忘れじゃないですか。私たちは二人がかりであの娘さんを殺したんだ。二人揃ってね!彼女が自殺した理由はひとつしかないんです。……あなたを守るためですよ! あなたを。先生、全てあなたのためなんだ」 

フレミング「私は、彼女を愛していたんだ!」 

コロンボ「(平静に戻り)ええ、そうでしょうとも(深く溜息をつき、踵を返して)さて、もう全て終わりました……もう一度お祝いを申上げます。お世話になりました」

 ドアの方に行く。 

フレミング「ちょっと待ってくれ」

 コロンボ、立ち止まる。フレミング、何か決心した雰囲気

フレミング「私も一緒に行く」 

コロンボ「(驚いた風)何のために?」 

フレミング「(静かに)自首するためだ」 

コロンボ「(彼をじっと見つめて)結構ですが、なんとも馬鹿げたことをされますな。そう思いませんか?」 

フレミング「恐らくね……。君にはこの理由はわからんだろう。だが、君はともかく、スーザンはわかってくれる。ねえ君、私は彼女に借りがあるのだ。(しばらく動きを止め)笑えるな……君はしょせん役人だ、コロンボ君。君は間違った方法で私をつけ回した。君がやっていたことは全ての糸をもつれさせることだけだった。君にはものごとの裏側にある真実を見ることは出来んのだよ」

 フレミング、独白。

フレミング「確かに、俺は死ぬまでクレア(注・殺した奥さん)と一緒に暮すことが出来たかも知れない。長椅子の端っこ同士に座って新聞を読み、シングルベッドで寝るという生活を送り続けることも出来たかも知れない。……しかし、俺はスーザンと出会ってしまった。(かすかな、内心の笑みがこぼれる)そして二人は恋に落ちた。それだけのことさ。(動きを止める)さて、全ては終りだ。計画も、実行も、未来への準備もな。しかし、俺は現実をごまかしていた。彼女は俺に地獄まで一緒についてきてくれるつもりのようだが、俺はその埋め合わせもしてやれない。何を俺はしていたんだ? 俺のオフィスに告解にやってくる連中の気持ちが少しわかった気分だ。俺は話したい。誰かに聞いてもらいたい。聖職者か、警官が必要だな。(コロンボの方を向いて)……そこで、君が要る」

 コロンボ、しばらくじっとしている。勝ち誇るような雰囲気は全くない。やがて、肩をすくめ、ドアを開ける。

 フレミング、応接室の方へ行こうとするが立ち止まって振り向き

フレミング「君はいつだって役に立つ男だ、全くな。」

 コロンボ、黙っている。

 

つまり、フレミングは愛人を自殺させてしまった良心の呵責に苦しみ、自らの罪を認めるのである。そして、二人が去ったあとに、死んだはずのハドソンが駆け込んできて、警察が長いこと自分を連れ回していて、連絡がとれなかった、とフレミングの秘書に言う。

 

ラストシーン、秘書も去った無人のオフィスで彼女が見たものは、“全ての愛を込めて スーザンへ”という、婚約指輪の包みに添えられたカードだった。

 

……要するに、ハドソンは、ラストでフレミングの愛を確認する、という結末になっている。これは一種のハッピーエンドですらあるだろう。おそらくテレビ版における変更は、舞台でのコロンボ人気からということ、それからミステリものとしてのインパクトということもあるだろうが、もうひとつ、犯罪者を正当化するように見える可能性があると制作者側が判断したためではないか。1960年代の放送コードでは、殺人者、それも自分の妻を殺した男に視聴者が感情移入してしまうのはまずかったのだ。そのため、フレミング医師は必要以上に(そして唐突に)酷薄な冷血漢にされてしまった。ここらへんは、今見ても、完璧と言えるテレビ台本の唯一の難点である。

 

トリックとしてはテレビ版が勝っているが、ストーリィの流れと、観た後の心地よさは戯曲版の方に軍配が上がるだろう。……ただ、この変更が、コロンボ警部という希代の“ヒーロー”を際立たせ、後のシリーズ化につながったことは確かだろう。この変更ではじめて、コロンボはフレミングを抜いて“主役”になったのだ。そこが、舞台版とテレビの、最大の違いである。

 

アメリカでは今もなお、この戯曲版は上演され続けているようだ。日本でもどこかの劇団がやってくれないだろうか。

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