カラサワの演劇ブログ

演劇関係の雑記、観劇記録、制作日記、その他訃報等。観劇日記は基本辛口。これは自戒とするためでもあります。


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2016年9月に弁護士でありコラムニストの高橋維新氏がネットメディア『メディアゴン』に発表した記事『一人で全部を演じる「落語」は本当に面白いのか?』は落語ファンたちの間にちょっとした波紋を投げかけた。

http://mediagong.jp/?p=19210

 

氏は

「なぜ落語は一人の噺家に全てをやらせるという手法に固執しているのだろうか」

という疑問を提示し、

「落語という文化のあり方はさておき、“観客の理解”という点においては、確実に、登場人物一人一人の全てに、違う演者をあてがった方が分かりやすいのは確かである」

と主張し、

「結局、落語というのは、作り手の手間を抑えてサボるための仕組みに過ぎないのではないか、と筆者には思えてならない」

と結論づけていた。

 

当然のことながら、この意見にはプロの落語家をはじめ多くの落語ファンから異論・反論が続出し、そのほとんどが高橋氏のことを「落語の本質がわかっていない半可通」として断じていた。これには私(唐沢)もほとんど異存はない。ひとりの演者が、衣装もセットもないところで話術のみで演ずるからこそ、聴き手の側に想像力が働き、限りなく豊かな落語の世界にひたることが出来る。この特色というか、話芸だけが持つ強みがそもそもわからない、という者が落語を語って、まともなものになるわけがない。

 

しかし、これには、落語というカルチャーが、現在人気落語家たちが多数輩出し、一見隆盛を極めているように見える陰に潜む、ある危機が隠されている、と私には思える。

 

実は高橋氏のような論が出てくる背景には、現在の落語の演じ方がどんどん演劇に近くなってきている、ということが背景にあるのである。それは演者側の問題ばかりでなく、聴き手の側にも潜む問題であり、ひょっとして、21世紀という時代を落語が“落語のままで”生き残ることを不可能にさせる、本質的な問題が隠されているように思える。

 

登場人物の心理になりきり、キャラクターをそれぞれ演じ分ける。……これははっきり言って落語の演じ方ではない。落語はもっと人物の描き分けが大雑把で、女を演じても子供を演じても、演者というものがだいぶ残る。演劇の常識とは逆に、名人と呼ばれる人ほど、その区分が不分明になる。何人(ときに何十人)もの人物をひとりで演じる関係上、いちいち演じ分けていると、かえって聞き手に混乱を生じさせるからである。

 

俳優の風間杜夫氏は、趣味が嵩じて自ら高座に上がって落語を演じ、今では独演会を行い、プロ以上の人気を博している人だが、俳優の落語について、

「僕もそうなんですが、俳優さんが落語をやると、とかく演じすぎちゃうんです」

と言っている(春日太一編『役者は一日にしてならず』)。

 

確かに演劇人が高座で落語を演じると、大抵この弊害が出る。落語特有のポンポン進む会話を、いちいち人物を演じ分けるものだから、そのスイッチングが聞いていてせわしなくて仕方がない。それに、どんな名優の名演技であろうと、男性が女性に成り切ってしゃべるのはグロテスクでしかない。冒頭のような暴説が生まれる所以だろう。

 

落語を演劇(ひとり芝居)の一種と思っているからこういう感違いが起こるのだが、感違いどころか、現在の若手の落語家の中には、そのように認識して演じている人が次第に増えてきている。落語家にも演劇の経験者が多くなっている。そして、聞き手も演劇的な批評。つまり演じている役の心理がリアルかどうか、を落語に対して下す。「落語の演劇化」が最近の流れである。

 

演劇(近代演劇)の主体はリアリズムにある。心理や行動が実際落語はリアル芸術ではない。様式化と抽象化、そして何よりナンセンス化のために、リアル性は大いに歪められている。そしてその歪んだ世界観こそ落語の魅力である。

 

『芝浜』と言えば誰でも知っている名作落語だが、いくら酔っぱらってべろべろになったとはいえ、財布を拾ってその金で仲間を集めてどんちゃん騒ぎをした記憶を、全部夢だと言いくるめられて信じる男が果たしているだろうか。集められた大勢の仲間の誰かがひと言でも

「あの日のどんちゃん騒ぎは楽しかった」

とか言おうものなら、全ておしまいである。芝居でこれをやったら(実際、芝居になっているのだが)そこの不自然さが気になって仕方がないだろう。話術だけで描写をするからこそ、リアルな疑問や不都合、辻褄はぼやかされ、省略されて、ギリギリのところでこの話は成立しているのである。舞台のように、“全てを見せる”必要がないからこそ、『芝浜』という名作は存在できるのだ。

 

『包丁』という名作落語がある。食い詰めた男が悪友に久しぶりに出合い、ある仕事を頼まれる。その悪友はいま、自分に惚れている姉さん女房に食わしてもらっている身分だが、別に女が出来たので、何とか女房と別れたい。そこで男に自分の古い友達と言って家に上がり込み、頃合いを見て女房をくどいてくれというのである。いい雰囲気になったところで悪友がそこに怒鳴り込み、出刃包丁を畳に突き立てて

「間男見つけた、重ねておいて四つにしてくれる」

と脅迫する。女は現場を押えられた上は何にも言えないだろうから、そこで女郎屋に叩き売って金にして、それを山分けにしよう、というのである。

 

いい仕事じゃないと思いながら男は金欲しさに引き受けて家に上がり込み、女房を口説きにかかるが、女房は亭主が自分を売り飛ばそうとしていることなど知りもせず、亭主に惚れ込んでいて、男をはねのけ、さんざ口汚く罵る。頭に来た男は、罵られた悔しまぎれに、亭主の悪巧みを全てばらしてしまう。女は驚き、嘆いて亭主をうらみ、なんと本当に男のくどきに乗ってくる。すっかりいい仲になった二人のところに、何も知らない亭主が怒鳴る昆でくるが……という話。これもナンセンスもいいところで、亭主に裏切られたと知って嘆き悲しむ(いまのいままで罵っていた男の言うことをまるまる信じ込むというのも凄いが)のはいいにしろ、裏切られたあてつけだからと言って、その男とねんごろになる、というのは、普通の芝居でそんな演出をつけたら

「心理の流れがまるでつながらない」

とさんざ言われてしまうだろう。この、女の態度の豹変は、ラストに話を落し込むための“都合”によるものでしかない。しかし、だからこそ、女の、だまされていると気がつく前と後との変化、男ふたりの立場の変化の面白さが鮮やかに描かれ、リアルを超えた人間性の面白さが表現される。

 

以前、さるベテラン落語家の『包丁』をテレビで見たが、この演劇的リアリズム演出で演じており、生々しくて聞いていられなかった。おまけに、リアルに演じるほど、あの噺の「設定の無理」が露呈してしまい、作品の価値さえ下げてしまう。細かい心理のリアリティなど無視しているからこそ、あの噺は名作なのだ。

 

古典落語は類型の蓄積で作られ、描写される。武士、町人、江戸っ子、田舎者、女郎、みな描写は類型で、だからこそ聞き手と演じ手に共通の落語の世界観が形成されている。最近の落語は新作が大きな比重を占めはじめており、新作には共通の世界観がない。個々のキャラを演劇的手法で表現するしかない。

 

この落語的描写の教養はもはや絶滅寸前。いまのうちに落語的演出理論をまとめて“常識”としておかないと、近い将来落語は演劇的演出に完全に支配され、旧来の落語(ことに古典)は消滅するだろう。そうなると、あの「それぞれの役をそれぞれの演者が演

じる方が面白い」という説が正当性を持つようになってしまうだろう。

 

もともと、落語における評論というものが、その独自の形式と表現方法を突き詰めることなく、人物描写や構成技術といった“文芸評論”“演劇・映画評論”から借りてきた技法によって成立してきたことが、昭和の黄金期に、落語の受容法を歪めてきたという

背景があった。そして、聴き手側から演じ手側に移行していった落研あがりの演者たちにより、落語の落語らしさというものは加速度的に失われていった。かつての、「寄席で落語を学んだ」世代の最後である談志、志ん朝、圓楽といった世代の死去により、その伝統は失われたと言っていい。

 

最近の世代交代の加速化を見るに、落語が落語の形(伝統)を守って生き延びることができるか、時代の流れ(伝統の隔絶)により、演劇の一分野という形に変化して原型は消滅するしかないのか、それはこれからの10年という短期間に明確になるだろうと思われる。

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