カラサワの演劇ブログ

演劇関係の雑記、観劇記録、制作日記、その他訃報等。観劇日記は基本辛口。これは自戒とするためでもあります。


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日本の演劇・映画の世界で、明治・大正・昭和にかけて大きな足跡を残した俳優・演出家の自伝。

 

戦後間もない昭和22年に書かれ、出版された。紙の調達もままならない時代によく出せたものだが、井上はその3年後、昭和25年の2月に急逝している。思えばこの自伝の企画はすんでのところで失われていたかもしれない、貴重な記録を残すことになった。 

 

映画と演劇は、今でこそ、役者以外のスタッフは全く違う世界の人になっているが、明治末から大正時代くらいまでは、舞台でヒットした芝居をそのまま屋外のセットで撮影し、映画館にかけた、という作品が多かった。当然のことながら演出は舞台での演出家である。そのような舞台と映画の接近は、「連鎖劇」という特異な興業も生んだ。舞台の上で芝居が進行し、やがてアクションシーンなどになるとスクリーンが下りてきて、そのシーンが映画で上映される(当時は無声映画なので、役者たちはスクリーンの裏で、生アテレコをする)。それが終るとスクリーンが上がり、また本身の芝居が始まる……という仕組みである。 

 

時代の尖端のジャンルであり、全く新しいこの連鎖劇の世界に、当時新派で伊井蓉峰、河合武雄、高田實の御三家に次ぐ位置に属していた井上が飛び込むというのは冒険でもあり、いかに当時新派劇がマンネリの陥穽に落ち込み、衰退しかけていたとはいえ、恩知らずとして糾弾も受けた。井上がこの決意をしたのは自分の一座を食わしていかねばならないという経済上の問題があった。 

 

結果は、それまで山の手中心に広がっていた新派ファンにプラスして、連鎖劇のメッカであった浅草の観客層にアピールするという、後の役者としての井上の大成に大きく寄与するものとなった。なにしろ、彼が根城にした浅草の御國座では、あまりの大入りに、連れて来られた子供が手洗いに行くのに”客の頭の上を歩いていった“ことがあったほどだったという。 

 

ただし、芝居の稽古に加え屋外での撮影までしなくてはならない連鎖劇のスケジュールは殺人的で、このままでは身体が続かない、と数年で井上は連鎖劇から離れてしまう。それでも、映画への興味は大きくふくらみ、大正4年、映画制作をやっていた小林喜三郎(やり手で強引な商売で有名で、明治のヒット怪盗映画からとった”ジゴマ“のあだ名で呼ばれた)の設立した『国際活映』に入社、役者として出る他、自らメガホンをとって多くの作品を 

残した。井上がここまで映画に入れ込んだのは、役者としての彼の最大のコンプレックスであった、生まれ故郷の伊予訛りを、当時無声だった映画なら気にしないですむ、という理由があった。 

 

芝居の世界から映画に入ったが故に、井上は舞台の上では”やりたくてもできなかったこと“をどんどん取り入れていった。カットバック、移動撮影、クローズアップなど、現代の映画でおなじみの手法はみな、井上が映画に取り入れたものである。凝り性の井上は映画界に飛び込むにあたって、七ヶ月間、本場の映画界を視察するために渡米している。当時としては最新鋭の技術を持って日本に帰ったのである。もっとも、この自伝では、言葉がわからないのでほとんど勉強にならなかった、と言ってはいる。 

 

なにしろ、明治の日本人の英語力というのはひどいもので、明日、と言おうとしたがさっぱり通じない。後でわかったが、トゥモローと言うべきところを”ニモロー“と言っていた。トゥーは2だからと勘違いして、ニモローと言っていたというのである。これはひどい。 

 

亡くなったのが昭和25年、もう60年以上前の人である。その若い頃の思い出ばなしだから、ほとんど一世紀近い前の話ばかりで、読み通せるかな、と思ったのだが、あにはからんや、一読巻を措く能わざるといった面白さで、ほとんど徹夜して読み切ってしまった。草創期の話というのは何でも面白いものだが、当時の役者という人種のデタラメさというのは、まあ今の想像を絶している。座組でかなりいいところの役をもらっていても、その時たまたま出会った旅回りの劇団と合流して意気投合すると、すぐそこに飛び込んで一緒に旅をはじめ、前の劇団から雲隠れしてしまう。 

 

若い頃のことを描いた前半は、もう目まぐるしいまでにいろんな一座に入っては出てまた戻り、また出て、の繰り返して頭がくらくらする。井上は終生、新派の先輩である高田實を師匠として仰いでいたが、その高田の一座に彼が在籍していた期間はたった一週間である(!)。若さ故のあせりで、上に先輩がずらりといならぶ高田のもとでは、いつ出世が出来るかわからない。もっと自由なところへ行きたいと思って出奔するのだが、それにしても、前々から尊敬する人物のところに弟子入りしておいて、たった一週間で見切りをつけるというのは早すぎる。とはいえ、この時代はそれも珍しいことではなかったのだろう。高田も高田で、その後、別の舞台をやっていた井上をある時見て、 

「俺の弟子にもなかなか有望な奴がいるよ」 

と語ったというから、明治の人というのはふところが深かった。 

 

一家を成したあと、彼は新派劇ほど通俗に堕さず、新劇ほど独善的でもない、という“中間演劇”の確立を目指して井上演劇道場を設立し、ここから岡田嘉子、山村聡などの若手が輩出したが、自分自身の舞台活動は次第に少なくなっていき、道場の座員を岡田の一座に出演させることなどをしていた。やがて岡田は演出家の杉本良吉とソビエトに逃避行し、山村は戦時色が濃くなってきた時代の井上のやり方に反発して、仲間8人と共に脱退して袂を分かつことになる。だが、井上はあえて彼らを追わなかった。 

「三十年、四十年昔の若かった私自身が、彼らと同じ反逆児だったのです。あの頃私の経験した気持ちを、彼等が今また経験しようとしているので、つまり順送りなのです」 

この、自分自身への客観視が、俳優としての達観なのか衰えなのか、 それは、この本の刊行間もなく井上が世を去ってしまったのでよくわからない。 

 

同じ時期、後に大女優となる高峰秀子は、子役で新派合同の公演に出演し、岡田や井上と共演している(『私の渡世日記』より)。井上はいつも舶来のしゃれたオモチャをプレゼントしてくれ、芝居がハネると 

「さあ秀坊、行こうかネ」 

と、彼女を銀座のおしゃれな洋食屋に連れていってくれ、彼女は毎日、それが楽しみで舞台をつとめていたという。舞台活動が意に染まなくなってきた時代、無垢な幼女俳優にごちそうすることで、井上は鬱憤をまぎらしていたのかもしれない。 

 

映画『狂った一頁』(衣笠貞之助監督・大正18年)で、井上の演技を見ることが出来る。多分にドイツ表現主義の影響が大きいこの作品で、井上は大仰な芝居を抑え、じっくりと狂人となった妻を見守る看守の役を演じている。 

 

それにしても俳優の自伝のタイトルとして、『化け損ねた狸』とは、自嘲的に過ぎるとはいえなんと秀逸なことか。自らを客観することに長けていた井上ならではのタイトルだろう。 

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