カラサワの演劇ブログ

演劇関係の雑記、観劇記録、制作日記、その他訃報等。観劇日記は基本辛口。これは自戒とするためでもあります。


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紙芝居師梅田佳声先生、8月27日死去。87歳。

 

以前から入院されていたことを聞いており、病気が病気、年齢が年齢、覚悟は出来ていたもののやはり残念である。きわめて残念である。ひとりの紙芝居師というより、一代の日本の話芸が失われた、という感さえある。 

 

初めて出会ったのは立川談幸さんの『江戸話芸の会』だった。『猫三味線』のさわり部分を語ってくれたのだが、一発で“ヤラレて”しまった。いきなり胸の琴線をわしづかみにされた、という感じだった。 

 

そこで談幸さんにより「佳声さんは紙芝居を落語や講談に並ぶ寄席芸として確立させようと頑張ってらっしゃる」という紹介があり、それを聞いたときから、私はそこにいくばくかの手を貸したい、貸さねば、という勝手な衝動にかられた。

 

その意志がより強くなったのは、それから一ヶ月もしないうち、快楽亭ブラックから電話で、
「センセイ(私のこと)の大好きそうな芸人、見つけちゃった!」 
と電話がかかってきたことである。快楽亭も別の会で佳声先生をひと目見て惚れ込んだとのことだった。今どきのソフスティケートされた芸とは真逆の、大衆芸能の根っこにある泥臭さを保ちつつ、超絶な技術で“芸術”としての完成形に達している、そのギャップが、私や快楽亭のようなスレた演芸マニアにとって、何とも言えない魅力だった。

 

それからすぐ、四谷にその頃あったコア石響スタジオで『猫三味線』全編通しを見て、その場でだったろう、先生に「この作品のビデオ化」に動く許可を得た。そのときは、熱意だけで皆目見通しなど立ってなかったが、運気が回って来るときは回ってくるもので、某製作会社から「何かすぐ製作にかかれる企画ない?」と声がかかり、猫三味線のDVD化を話してその場でOKが出た。準備期間もほとんどないままに、ありとあらゆる人脈をたどって、京都太秦での実写部分撮影も加えたDVDが完成したのは、ほとんど奇跡と言ってよかった。時の運、人の運に恵まれていた。 

 

それ以降、佳声先生とはさまざまな場でイベントをご一緒した。DVD化の前にはトンデモ本大賞で実演をしてもらったし、その後は京都の怪談の会、長野・飯田の人形劇フェスティバルなどで“共演”した。仙台で新作紙芝居『蛇蝎姫』が上演される、というので飛んでいって、現地で偶然、ばったり顔を合わせた、というようなこともあった。 

 

佳声先生はいわゆる街頭紙芝居の出身ではない。若い頃は大宮敏光のデンスケ劇場に所属して大衆演芸の道を歩み、また漫才コンビを組んで寄席の高座にも立った。体を壊して芸能界を一時は引退し、長く印刷工房に勤めたが、退職後、ふと上野の下町資料館に展示している紙芝居を見かけ、 
「これを演じる人はいま、いるのか」 
と係にたずね、いないという答えを聞くと、 
「じゃあ、俺にやらせてみないか」 
と自ら売り込んだという。 

 

街頭紙芝居はもともとは飴売りに付属した興行である。飴を売るための集客コンテンツとして、空地や四つ角などで紙芝居を上演した。売り子の多くは食い詰めた失業者や学生アルバイトであり、その技術は人によりかなりの巧拙の差があり、名人の名は幾人も世人の口に上りながら、それはほとんど個人のものに終わり、師匠から弟子への技術の伝授などというものもほとんどなかった。あれだけ紙芝居というものが日本人の戦後娯楽の(戦前から存在はしたものの)原点として認知されながら、その継承がほとんどなされなかったのは、紙芝居というジャンル自体がかなり短期間に衰退し、話芸としての確立がなされる時間がなかったためである。 

 

戦後数十年を閲して初めて、梅田佳声はその分野の確立に立ち上がった。飴売りという紙芝居の形式から脱し、またそれまでの紙芝居師が頼っていた終戦後ノスタルジアに寄りかかることなく、純粋に“話術”で観客を魅了する芸術ジャンルとして、紙芝居を位置づけた。……もちろん、飴売りの客寄せという特性から生ずる、多くの紙芝居の持つナンセンスさ、デタラメさも十二分に理解し、楽しさとして取り入れながら、である。 

 

某大学の教授がやはり梅田佳声の芸に惚れ込み、文化勲章授章に動いたことがあったという。だが、文部省の役人は、その高座を見て顔をしかめ、 
「あれじゃいけません。今どきのCMをギャグで入れたりして改変しているでしょう。文化勲章というのは、伝統のものをそのまま今に伝えている行為に対し与えられるものなのです」 
と言ったそうな。……しかし佳声に言わせれば、もともとの紙芝居などというのは、大人の鑑賞に耐えられるものではないし、今の子供に面白いものではない。話芸は受けなければ価値がない、と、かたくなに現代風な語りへの改変をやり続けた。もちろん、その“現代風”に、年齢から多少のアナクロニズムが混じることは当然であり、私などはそれもまた大喜びで聞いていたのだが。

 

子供向け故に、その集中力の限界を考えて七枚から十一枚がひとくくりとなり、後は明日のお楽しみ、となるシリアル性も紙芝居の特長のひとつだったが、佳声はその慣習を大胆に打ち破り、『猫三味線』は全編通しで三時間を超す長講作品として上演した。これが評判をとったことが紙芝居界に大げさでなく激震をもたらし、似たような通し上演を行う紙芝居師が続出した。これも、佳声が街頭紙芝居出身ではない出自であることから破ることのできた「伝統」だったと思う。その他、子供向けの紙芝居に大人向けの解説をつけたり、歌舞伎や新派のセリフを大胆に取り入れたりする演出も、観客の年齢に合わせた佳声独特の演出だった。冒険活劇『虹の御殿』のラストで、主人公の少年と少女の会話が新派劇になって「おめえにゃア苦労かけるなア」「何言ってンだい、お前さん。水臭いよオ」とくさいやりとりになってしまったり、『マンガ ゴクウ(西遊記)』で、三蔵の袈裟を奪った黒大王に向かい孫悟空が「その袈裟素直に渡さばよし、嫌だなんぞとぬかすが最後、とっつかまえてギュウ、ひっつかまえてグウ」といきなり『仮名手本忠臣蔵』の鷺坂伴内もどきになってしまうところなど、他の演者に比べて、話芸の基礎教養の量が違う、という感じだった。 

 

しかし、と、私は何度も梅田佳声の名調子に酔いながら、一種の危うさも感じていた。佳声という、誰にも追随を許さぬ才能は、結局のところ、佳声一代で途絶えてしまうのではないか、と。実際、佳声は「自分が師匠について学んだ芸ではないから」と、弟子を取るということをしなかった。「紙芝居にはルールなんかない。好きなようにやればいいのです」と若い演じ手志願者たちには言っていたというが、そもそも若い演じ手には、“語り芸”に対する教養のフックさえない世代が多いのである。 

 

何年か前、一度、私は佳声先生に弟子をとらせよう、と策謀したことがある。ある劇団にいて、実力は誰もが認めているにも関わらず、なかなか目のでない女優がいた。謡から舞踊、フラメンコまでマスターしている、スジのいい子だったが、所属している劇団がアドリブ重視のところで、彼女は真の力を発揮できないでいた。ある日、私は彼女を呼び出し、顔をつき合わせるようにして、「佳声先生の弟子になれ」と説得した。その前に数回、彼女を紙芝居の会のアシスタントで使って、彼女は佳声先生にもすっかりなじんでいたのである。 

 

「お前のキャラクターは絶対紙芝居向きだ。お客いじりもできるし、朗々たる語りもできるし、歌もうまい。佳声先生にもハマるだろう。座長にはオレから話して説得する。先生について何年か全国回ってれば、すぐ独立できるし、そうなれば俺もバックアップする。評判になればマスコミも黙っちゃいないだろう。60になるまでやっててみろ、勲章だってもらえるかもしれないぞ」 

あれくらい熱意を込めて人を説得したことはなかった。最後には私も彼女も、涙をボロボロ流していた気がする。……結局、彼女は実家が詩吟の家元であって、自分はそれを継がなくてはいけないので、逆に紙芝居のような伝統芸を引き受けることが出来ないと言って断ってきた。それは仕方のない理由であったが、しかし、あの時、彼女をこの世界に引っ張れなかったことは、今でも痛恨の思いでいる。 

 

……梅田佳声の残したものが、今後、どのような形で伝承されていくのか。まだ、それは全く未知数である。何とか『猫三味線』だけは形として記録に残したとはいえ、無尽蔵とも言えるその芸の多くは受け継ぎ手がないままである(幸い、その一部は未発表ながら音源が残っているという。それに期待するしかない)。晩年に企画していた、書籍、DVD等の多くのものは、諸般の事情により実現できないままに立ち消えてしまった。それを私は一生の心残りとして背負っていくしかないだろう。

 

今はただ、生前のその洒脱な人柄と、空前絶後と言える芸風に触れられたことを多幸と思い、自らを慰めるしかない。先生、不肖の協力者で申し訳ございません。長いこと、本当にありがとうございました。

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