先日、テレビ番組Qさま!!読書の秋だ!!世界&日本のスゴい本

「東大&京大生が選ぶスゴい本BEST30」

1位に選ばれたのが「こころ」だったという

 

大学生が「こころ」を選んだ理由はなんだろうとか思案しました。

何故でしょうかね?異性関係で悩む年ごろなのかもしれません。

人間の心というのは不思議ですね。大きくなったり小さくなったり、

従順だったり、頑固だったり、時にはコロコロ変わったりと・・・・・

 

私は文学青年でも読書好きでもなかったので「こころ」を

最初に知ったのは統一教会でした。たしか、堕落性本性の講義で、

神の立場でエバを愛せず、エバを蹂躙してしまったルーシェルの

立場が「こころ」に登場する先生のような存在だとかなんとか・・・

 

もちろん同じ「こころ」を読んでも読み手によって感じ方や

考え方はそれぞれだとは思います。

私流の解釈と要点:

【先生が下宿先のお嬢さんに好意を寄せていたのに、後から入ってきた親友Kがお嬢さんと仲良くなっていき、悩んだKが先生に相談。先生はお嬢さんをKに奪われたくないので「まだ学生なのに恋とか言うてる場合か!学業に励むべきではないのか」というようなことを言った。しばらくしてKは自殺した。その後先生は望み通り、お嬢さんと結婚したのだが、卑怯な手を使ってKからお嬢さんを奪った形になってしまった。先生は良心の呵責(罪の重さ)に苛まされるのだった。】

 

私が最近思うのは「良心の呵責」は全ての人間が生まれながら持っているものではないのではないか、ということです。父や母を見て教育を受けて初めて「良心の呵責」が育まれてくるのではないでしょうか?先日も知り合いの天理教の方から天理時報特別号「人間いきいき通信10月号」を頂いたので読ませていただきました。今回は「情けは人のためならず!?さりげない助け合いを」というのがテーマのようで表紙にそう書いてあります。全文載せれないので一部だけ引用します。

・・・・・しかし、困っている人を助けたいと思うのは、そもそも人間が本来持っている自然な感情なのではないでしょうか。・・・引用終わり(後半の大部分省略します。ごめんなさい。)

 

私も元は天理時報特別号を書かれている方と同じ考えでした。でもオレオレ詐欺や世界で起こるテロや従軍慰安婦像を建てまくる韓国や「日本を海の底に沈めてやる」と公然と語り、日本人を拉致したまま謝るどころか返さない北朝鮮をみると、「良心の呵責」なんてあるようには思えない。自分の兄弟や側近をも残虐に殺してしまえるのです。受けた教育によって変わるような気がします。

 それに、私は統一教会の創始者文鮮明が書いた「原理講論」の最初の総序にまんまと懐柔されたのでなおさらである。一部引用すると「・・・。その子供に悪いことを教える父母がいるであろうか。そに師弟を不義に導く教師がいるであろうか。だれしも悪を憎み善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである。・・・・・」

 この原理講論を読んで、私は文鮮明を信じましたが、それは文鮮明をメシアと信じさせるための策略でしかなかったのです。文鮮明は青年の頃、日本の天皇の暗殺を謀る地下運動をやっており、若い頃から先頭に立って朝鮮独立運動をやっていた叔父の行動に心酔し、その後もずっと強烈な個性の強烈な反日だったと言えます。「文教祖を信じない者は皆サタンであり、そのサタンから上手くオカネを騙し取って文教祖に捧げる絶対服従・絶対信仰の信者だけが救われる」とし、日本の若者たちをロボットのごとく奴隷化していったのでした。

 

 だからもし誰にも良心があるとしても同じ良心ではないのでしょうね。日本人同士でも違うのですから国が違えば当然 違いますからね。夏目漱石の「こころ」はやはり日本人にだけ通じるこころなのでしょうか。韓国でも北でも子供の時から反日教育をしてるらしいから反日でなければ心が痛むのかもです。

 石田三成が関ヶ原の戦いに敗れ、京都の三条がわらで処刑された。その時の句が「人の心 はかりがたし」だったそうな。

(´ε`;)ウーン…

 

 

 

 

ご訪問ありがとうございました。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合 批判・告発へ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 天理教へ
にほんブログ