【からはだふくらか】によって、全ての生命は、死ぬその時まで、快い身体で、愉しく、悦びにあふれた毎日を過ごします。
わたしは、死ぬ瞬間まで成長し続け、全ての生命から感謝を受けて、豊かな暮らしをすることができます。
ありがとうございます。
タンスの角に小指をぶつける。
段差の無い所で、蹴躓く。
すれ違いにぶつかる。
などなど。
「何でこんなところで?」
というアクシデントに遭う方がいます。
というか、どなたも、どれかは経験されたことかと思います。
これらは、決して、不運な事故などではなく、起こるべくして起きている、ということをご承知でしょうか?
そして、そういう目に遭わないですむようになることも可能だということも知っていただきたいと思います。
私たちの行動のほとんどは、無意識が働くことで行われています。
意識の元で行われる活動などはほとんど無い、と言っても言い過ぎでないほど、私たちの行動は、無意識領域で行われています。
朝、目を覚ましたときに、目を開けるのも、起き上がるのも、顔を洗う、歯を磨く、トイレに入る、、、全てにおいて、意識して、一つ一つ行おうと思ってはいないはず。
例え、意識して行おうと思ったとしても、それは歯を磨こう、というところまでで、手をどのくらい上げて、ヒジを、手首を、指を、どう曲げ、どう開き、などという風に意識はしませんよね。
朝ご飯を食べるにしたって、意識されるのは、お腹が空いた、ということくらいで、あれをこれをどうしてこうして、ということは、簡単な調理くらいなら考えないでも出来てしまいます。
学校へ行く、会社へ行くにしたって、毎日のようなルーティンになっていれば、道順を考えるでも、交通手段を調べるでもなく、ほとんど無意識の中で出発し、辿り着くでしょう。
しかも、その間、心臓も、肺も、胃も腸も、内臓は働いてくれています。
目も耳も鼻も、皮膚も働いていますし、髪の毛や爪は伸び続け、古い細胞は死んでいき、新しい細胞が生まれ続けているのです。
意識して働く瞬間なんて、本当にわずかなものしかありません。
身体を動かすということにしたって、歯みがきの所で見たように、いちいち、角度や高さや速さ、そういったもろもろを意識して、調整しながら動かすことは滅多にありません。
それでも、歯ブラシを目に突っ込んだりはしないですんでいます。
そうした、無意識の動きは、過去に習得した動きです。
繰り返すことで、習慣化し、意識しなくても出来るようになるのです。
一度自転車に乗れるようになったら、何年ブランクがあっても、また、乗れる。
泳ぎもそう言われます。
そうして、無意識で動いているわけですが、ある時、自分の思いと、身体の動きとに食い違いが生まれるときがあります。
その原因は色々考えられますが、今はまあ、総称してゆがみ、と言っておきましょう。
つまり、タンスの角に小指をぶつけるのも、何もない様なところで、蹴躓くのも、すれ違いざまに人にぶつかってしまうのも、感覚としてはスムーズに行けるはずなのに、身体がゆがんでいることで、思いとズレた動きになってしまっていることで、起こってしまうわけです。
包丁で指を怪我するのも、金槌で指を叩くのも、同じこと。
出来ると思っている頭と、実際の身体の動きとの間に、ズレがあるのですね。
よく、ものを落とす、割る、壊す。
なんてのも、そう。
そういう方の特徴として、ドタバタ歩く、ドアをバタンと閉める、お皿をガチャガチャ音を立てる。
など、生活音がやかましい、ということがあります。
これらは、すべて、動きが雑、ということを現しています。
礼儀作法、マナーといったものが、物音を立てないように、と言われるのは、それが出来る身体は、コントロールが隅々まで行き届く身体だから、で、そういう身体の使い方が出来ることが、美しい所作につながるわけですよ。
おおっざっぱなうごき、というのは、早く、大きく、動かせば、できます。
ゆっくり、小さい動きが出来ないと、丁寧な動きは出来ません。
早く、大きい、おおざっぱな動きというのは、力まかせなんですね。
丁寧な動きは、力ではないのです。
こちらで立つ時は力では無く、バランス、だとお伝えしましたが、身体を動かすのも、力では無い、というところは同じなんです。
正しく立つ。
正しく歩く。
プログラム“希望”
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「私が実験室の内外で発見した病気の原因は、医薬品、食品、空気、土壌、水の汚染です。
ウィルスには核が無く、生きていない。」
・・・・Aajonus Vonderplantiz
「ウイルスは、単に有毒細胞の排泄物です。
ウイルスはDNAまたはRNAの断片であり、他にいくつかのタンパク質がある。
それらは細胞から出る。
その反応は細胞が毒されたときに起こるもので、病気の何の原因にもなりません。」
・・・・ Thomas Cowan MD
ウィルスが生物でない、という意味がこれで分かります。
ウィルスは原因では無く、結果だってことですね。
病気の人の身体を見たら、そこにウィルスってのがいた。
その状況証拠だけで、病気の原因に仕立て上げられた、えん罪です。
ウィルスが増殖しているように見える、ということは、つまり、身体が毒に素晴らしく反応したっていう事です。
とりあえず、ウィルス性の疾患といわれるものは、この世には存在しないってことです。
ウィルスに感染したいと願っても、それは無理だということ。
別の毒、そして気分によって、発症しているということ。
リーキーガットでウィルスが作られる、という説はかなり有力だと思います。
それに、別に病原なんて無くたって、目の前で、ゲロ吐かれたら、気分悪くなって、つられて吐くっていうのと一緒。
同調とかミラーリングとかっていうので病気に罹った気分になっている、という部分も、かなりを占めていると思います。
本人は本当に病気だと信じていれば、重症化だってしますよ。