通底し合う深みへ | 空庵つれづれ

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宗教学と生命倫理を研究する中年大学教師のブログです。



話題は、日々の愚痴から、学問の話、趣味(ピアノ、競馬、グルメ)の話、思い出話、旅行記、



時事漫談、読書評、などなど四方八方に飛びます。

精神科医を職業とする人たちのなかには、文筆家としてもずいぶん才のある人が多いが、

私がもっとも愛読しているのは、中井久夫氏の本である。


その深い学識と柔軟な発想はもとより、ギリシャの詩人カヴァフィスの訳者としても知られる

ように文章のセンスがいいし、何を書いてもすばらしく品がある希有なライターだと思う。


その中井氏が神戸大学を定年になってから、有馬病院という精神科の病院で行った講義を

編集した本を最近読んだ。

『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、2007)


中井久夫の本


この医学書院の「ケアをひらく」というシリーズは、編集者のセンスがいいようで他にも好著が

多いのだが、これは傑作である!

もう、引用するのは気が引けるぐらいの 珠玉の言葉の宝庫!!

曰く、

・病的な面に注目するのは、熱心な、あるいは秀才ドクターの陥りやすい罠です。

 私も何度かそういうところに陥ったし、まわりにもそういう人を見てきました。

 精神病理学者に多くのものを与えた患者の予後はよくないのです。

 ・・・・・・・・・

 すごく精密に病状を教えてくれると私はどうしてもそれをノートにとってしまうし、

 膝を乗り出して聴くのでしょう。患者のほうもそれに応えてくれる。しかしそういう

 ことを中心にしてしまうと、患者の人生はだんだん病気中心の人生になってしまい

 ます。・・・・・・・・

 医者も、患者すらそれを正しいことだと思ってしまうし、家族だってそう思うのですね。

 だからこれを修正するのはとてもむずかしいことです。むずかしいことですけれども、

 ぜひとも直さなければいけません。

・私の患者さんの自殺例は十数例あります。こころのなかのお墓です。私は、「次の

 患者が待っているから立ち直れるのだよ。でも最低四〇日はこたえるよ」と、患者

 に死なれた医師に言います。「次の患者が待っているから」は実感です。

・治療は山に登ることでなく、加速度がつかないようにしながら、山から下りること

 なのです。そして戻るところは平凡な里です。山頂ではありません。回復とは平凡

 な里にむかって、足を一歩一歩踏みしめながら滑らないようにしながら下りていく

 ことなのでしょう。

・これ(注・・退院が近づくと身体的な病気にかかる人)が仮病ではなく心身症、つまり

 からだが悶え叫んでいるのはおわかりかと思います。医者のなかにはこれを「疾病

 利得」(注・・・病気になることによって、何かを免除されたり、何かから逃避できたり

 して、患者が利益を得ること)といって毛嫌いする人がいますが、「疾病利得と正面

 からたたかって勝ち目はない」と断言してよいと思います。

 「せっかく病気をしたのだから少しはいいこともなくちゃ」と私は言い換えます。こう

 言い換えることによって、誰も損をしない状況に変えることができます。


・人にも言い自分にも言い聞かせたことですが、「この患者さんが安心して治れる条件

 は何だろう?」と考えてみることが大事だということです。それが見えないときは

 「現状維持がすでにメリットである。改善はボーナス」と考えることが、医療者の士気

 を保つために必要だと思います。

挙げていけばキリがないが、こうした言葉がグッと心に響くのは、とりたてて精神医学の
知識も必要のない平易な言葉で語られているこうした洞察や教訓が、精神科医としての
中井氏の長年の経験から出てきたものであるにもかかわらず、けっして精神科医にとって

だけ役立つ知恵なのではなく、他の科の医師や、医師ではない他の対人援助職の人々、

そればかりかおよそ人間の心の営みの機微を感知するアンテナを備えたあらゆる

人々に「ああ、なるほど~」と思わせる普遍性をもっているからだ。


本書の(本文)最後のところで引かれている言葉(中井氏の言葉ではなく、むかしの

精神科医の間でよく知られた言葉らしい)もおもしろかった。

若いときは病気はわかるけど病人はわからない。
中年ぐらいになってくると病人が
わかってくる。

年を取ってくると、病気も病人もわからないけど、なぜか患者さんはよくなる。


これを読んで思い出したのは、能を芸術として大成した世阿弥の「三つの初心」

という言葉だ。


「初心忘るべからず」という言葉は有名だが、世阿弥によれば、能役者としての人生は

三つの時期に分かれ、それぞれの時期に対応した「初心」があるという。

芸の修業をはじめたころの「若年の初心」。

中年に至って、芸がいったん完成したかに見えたとたん、肉体も容姿も衰えて、それまで

と同じ仕方では演技できなくなるという危機に見舞われる。これが「時々の初心」。

さらに老年に入って、この時々の初心を克服したと思った瞬間、「老後の初心」が始まる

のだという。


こういう言葉に触れたとき、

学問であれ芸術であれ、その道を自分の足で一歩一歩歩いて極めていくと、

深いところで通底し合っている共通の世界が見えてくるような気がして、

なんだか年をとっていくのが楽しみになってきます!