番外30.神籠石(こうごいし)考―綿花栽培の可能性について | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
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神籠石(こうごいし)とは、九州から奈良県の山岳部に建造された石垣に囲まれた施設を言い、朝鮮式山城だとか祭祀場だとかはっきりと用途のわかっていない施設です。


詳細はwiki【神籠石】を参照ください。


また、単純に大きな岩、一般的には男岩と女岩が対で並んでいるものも神籠石と呼ばれているようです。


神籠石は百嶋CDにも出てくるので名前だけは知っていましたが、音声データだったので、表記は皇后石なのか交合石なのか、と想像していました。すぐに交合と考えてしまうのは、やっぱりスケベな男だからでしょうか(笑)


われわれ関東地方には神籠石というものはないため、石垣に囲まれた山城型の神籠石をネットで見た時には相当の驚きがありました。その規模は勿論のこと、戦国時代に築造された土塁や掘割のある山城に比べても、はるかに手が込んでいます。


そして、いつ、だれが、何の目的で作ったのかが良くわかっていないのです。


「神籠石とは」の画像検索結果

 御所ヶ谷神籠石(へいちくネットさんのHPより引用)




 神籠石の分布


九州の神籠石の分布

 

wikiから興味深いところを抜きだしてみます。


列石遺構の内部に、顕著な建物遺構が見られない。

それぞれの神籠石の差異は大きい。御所ヶ谷のように「最初期形成時代以降にかなりの手が入っている

と思われるもの」や、雷山のように「生活域、食料生産域と隔絶し、水の確保が難しく、籠城には向かず、祭祀遺跡との位置関係が特殊であるもの」、おつぼ山のように「稲作農耕地域の小丘陵に設置されているもの」など様々である。

現在まで、神籠石が何時頃作られたかも判明しておらず、成立年代は同じであったとしても、これほど様々に状況の違うものを現在的視点から総轄し暫定的に神籠石と総称している可能性もあり、おつぼ山の調査結果は「神籠石の中に山城として使われていたことがあるものもある」ことが確定しただけに過ぎない。生活域に近い神籠石の場合、遺構中からの発掘物が無批判に神籠石の性格を規定できるものではないのも当然である。

また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代において知る極めて有効な事例であるとの声もある。

八木奘三郎は、古墳石室の構築法との比較から、神籠石の築造年代は推古朝(7世紀初)以前としている。鏡山猛は、列石前面の掘立柱穴の間隔が約3mで並んでおり、隋、唐代の大尺(一尺=29.4cm)の十尺(2.94m)とほぼ等しいことから唐尺が使われた7世紀中頃以降の築造と主張したが、南朝の小尺(一尺=24.5cm)でも十二尺(2.94m)とすると殆ど変らない値なので7世紀中頃以降の築造とする根拠はない。

北部九州から瀬戸内沿岸にかけて、16箇所が知られる。


さて、神籠石をわれわれは直感的に畑ではないかと考えました。それも重要なものを栽培する畑です。


関係者以外立ち入り禁止にし、秘密裏に栽培するにはするには、平地ではなく山上が適当です。


中世においても「検地」を逃れるために山の奥に開墾を作っています。


重要な植物とは何か?


衣食住は何時の時代でも基本です。住は雨風がしのげれば横穴でも竪穴でも良いのですが、人口増加につれて竪穴式住居が一般的になってきます。

 

食は効率的な稲の栽培方法が伝播したことで、人口増に対応ができました。

 

衣については、通説では麻織物と絹織物が主であるとされており、それらを「木綿(ゆう)」と呼んでいたらしいと解釈されています。しかし、人口増に対応するには効率よく生産する必要が生じます。したがって畑による栽培が進められることになったと考えることは当然のことでしょう。


多くの人が身につける衣類になるものとは、麻か綿花になります。絹やカラムシ(青麻)は高級品ですし、耐久性に欠けるので、多くの庶民が身につけるものではありません。


麻や木皮は縄文時代から織られて衣類にされていたようですから、綿花が一つの候補になります。


【綿花の歴史】 

旧世界で最も古い木綿栽培の痕跡は約7000年前(紀元前5千年紀から紀元前4千年紀)のも

 ので、インド亜大陸の北西の広大な領域(現在のバングラデシュと北西インドの一部)で発達 

したインダス文明住民によるものである。インダス川流域の木綿産業はかなり発展し、そこ

 で生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていた。西暦が始まる

以前に木綿の布はインドから地中海、さらにその先へと広まっていた。


 「綿花」の画像検索結果 

 バロメッツ(想像上の羊毛の実る草)       綿花



【日本における木綿の歴史】 

日本へは799年(延暦18年)三河国(愛知県西尾市天竹町(てんじく=天竺)と言われるが、『日本後紀』には三河国としか書いてない)に漂着した崑崙人(現在のインド。真偽・詳細は不詳。

 崑崙人は各地を廻り、栽培法を伝えたとされている。 主にこの後、綿は明や朝鮮からの輸入 

に頼ることになり、故に長い間高級品であった。その後、連続して栽培され一般的になるのは、16世紀以降とされる。戦国時代後期からは全国的に綿布の使用が普及し、三河などで綿花の栽培も始まり、江戸時代に入ると急速に栽培が拡大。各地に綿花の大生産地帯が形成され、特に畿内の大阪近郊などにおいて生産が盛んになった。 



こんなことがWIKIには書いてありますが、百嶋神社考古学では、地中海沿岸に住んでいた集団や、イン

ドに住んでいた集団が渡来していることは常識化しているので、上記の記述を真に受けることはありません。インダス文明を興した民族はドラヴィダ人です。正に日本人の先祖の一つになります。


発掘考古学では綿製品が発掘された事実は無いようですが、都合の悪いものにはふたをしてしまう「実績」があるので疑心暗鬼です。


神籠石を綿花の栽培地と推測した理由を記します。


①金山彦、スサノヲの先祖がインドから西アジア経由で列島に入ってきたと考えられること。

  (製鉄、織物、製陶、建築、土木技術や政治、宗教を伝えたと考えられる)


②その時代大陸はことごとく匈奴系国家であり、高度な技術を維持することは難しいと考えられ、実は日本から輸出していた可能性があること。つまり逆輸入していたかもしれない。


③したがって当初は綿花や絹製品は交易の有効な製品であったと考えられる。もちろん貨幣としての子安貝や銅銭の輸出もあった。注意する点は、半島も大陸も実はスサノヲ、五瀬命系が治めていたということ。


④列島においても匈奴系勢力(イカスリ劉一族)の台頭によって神籠石が奪取されるが、そのときの名残が「井カスリ」ではないか。

「カスリ」の画像検索結果 


絣の三大産地(久留米、伊予、備後)と神籠石の分布を見比べれば、重なっていることがわかります。




⑤イカスリ勢力による政権交代によって、高度な技術が継承できなくなってきたために放置されてしまったり、一部は山城として流用した。


最後に花菱紋(門光紋)について述べて終わりにします。

「花菱紋」の画像検索結果  「唐花紋」の画像検索結果  

  花菱紋(開化、伊勢神宮)          唐花紋            五弁木瓜紋(スサノヲ系)


「綿花」の画像検索結果 「綿花」の画像検索結果

 四割綿花                         五割綿花


「花菱紋」の画像検索結果

剣唐花紋


なぜ剣が入るか、剣が重要な理由は綿花の「額」の部分を忠実にデフォルメしているからなのです。


したがってこの神紋を使う鴨玉依姫は綿花の栽培や交易の中心者であったことが伺えるのです。


百嶋先生が「剣が重要です」と繰り返し言っていた理由はおそらくこのことだったと推測しています。


さて、鴨玉依姫から十字剣を継承したとされる、ホムダワケ応神の正体は如何に?




百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp


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