1984年にカパティのスタディツアーに参加した小川玲子です。
気がついたらスタディツアーから何と30年以上もたっていたのですね!でも、学生の時の出会いが一生を変えることもあります。私は国際協力の仕事を15年間した後、現在は大学の教員をしています。カパティのスタディツアーに参加していなければ、私の人生はずいぶん違ったものになっていたでしょう。ここでは、今の私の原点の1つとなったスタディツアーでの出来事を紹介したいと思います。
1985年夏のフィリピンは、戒厳令を敷いたマルコス政権の末期で、社会の矛盾がさまざまな形で噴出していました。1983年にはマルコス大統領の宿敵とされたベニグノ・アキノ上院議員が選挙に出馬するためにアメリカから帰国した際に、マニラの空港で暗殺されるという事件があり、民主化運動が日に日に高まりを見せていました。アキノ上院議員の未亡人であるコラソン・アキノ氏のシンボルカラーの黄色のTシャツを着た人たちが集会に集い、マルコス政権の打倒を呼びかけていました。弾圧されても、投獄されても立ち上がる反マルコスの流れは止まず、ますます大きくなっているように見えました。フィリピンは、80年代のバブル景気に浮かれた日本からは想像もつかない政治の季節を迎えていました。滞在中、国立フィリピン大学の学生たちと政治問題について議論したり、農村やアヤラ博物館やセブ島に行ったりしましたが、私がその中でも忘れられないのはスラムでのホームスティです。
スラムで出会う日本の軍歌
私が泊まったのはマラボンという地区で、木でできた一間だけの小さな家に家族5名と共に寝起きを共にしました。入口に小さな階段がついていて、戸口はいつも開けっ放しでした。目のくりっとした優しそうなホストマザーは、見知らぬ国から突然来た私を暖かく迎えてくれました。
ホストマザーは初めて出会った私に「私は日本の歌を知っているのよ」と、「見よ東海の空高く」という軍歌を歌ってくれました。1941年12月に日本軍はマニラに進駐を開始します。日本占領期に亡くなったフィリピン人は100万人ともいわれ、戦争の残虐さや非情さは大岡昇平の小説『野火』『レイテ戦記』やフィリピン映画の名作である『神のいない3年間』(1976年)などに描かれています。しかし、日本とフィリピンの歴史について知ったのはずいぶん後のことで、ホストマザーが歌う軍歌を聞いて、私はその時初めて自分が知らない過去の日本と出会ったのです。
当時、大学生だった私にとって、祖母から戦時中は食べ物がなくて野菜を育てた話や、祖父は病弱だったため徴兵が遅れ、六本木の駐屯地に向かう直前に終戦になった話を耳にすることはあっても、戦争は歴史の中に埋もれた「過去」の出来事でした。そのため、目の前のホストマザーの記憶の中に、日本軍による占領という出来事と共に、日本の軍歌が深く刻まれているということに衝撃を受けずにはいられませんでした。ホストマザーを通じて過去が現在と結ばれる時、自分が生きてきた20年という時間軸が突然長くなり、生きられた歴史の重みと深みを感じました。そして、自分が知っている(と思っていた)日本と、ホストマザーの心象に浮かぶ日本との間の齟齬に思いをはせずにはいられませんでした。なぜ、日本人大学生が知る日本とフィリピン人が知る日本との間に大きなずれが生じているのか?なぜ、日本の歴史の中には戦争の理解をめぐってある種の断絶があるのだろうか?なぜ、私は過去の日本についてこれほど無知でいられたのか?
すでに戦後70年を迎えましたが、私が知っている(と思っていた)日本とホストマザーが出会った日本との間の齟齬は、残念ながら今も埋められてはいません。ホストマザーとの出会いから30年が経過し、歴史認識の問題が何も進んでいないことに忸怩たる思いがあります。多くの日本の政治家たちは日本がアジアの一員となることには関心がなく、アジア諸国との歴史認識の問題は時を経てますますこじれ、日本が孤立する要因になっているように思います。
政治犯のお兄さん
スラムではホストファミリーのお兄さんは政治犯として投獄されており、私が滞在した時にはちょうど釈放された直後でした。夕方、大勢のスラムの人たちが窓や玄関口から覗き込む中で、お兄さんは私にマルコス政権による拷問のありさまを語ってくれました。その話は、私には想像もできないくらい残忍で過酷なもので、人間が同じ人間に対してそのような暴力を行使することが出来るのだという事実を初めてつきつけられた瞬間でした。しかも、当時マルコス政権は「都市の美化」という名目でスラムを次々に撤去し、マラボンにもいつ軍隊が踏み込んできてもおかしくないくらい政治的に緊張していました。お兄さんが受けた拷問の話を聞きながら、おそらく私は恐怖心を顔に表したのだろうと思います。そして、今、軍隊が踏み込んできたらどうなるのだろう、と想像した瞬間、隣にいたホストマザーは ”Don’t worry, you are under complete safety” と声をかけてくれました。その何気ない一言は30年以上たった今でもはっきりと覚えています。そして、もしもその瞬間に軍隊が踏み込んできたとしたら、この人たちは自分の命を犠牲にしても見ず知らずの他人である私を助けるのではないか、と直感したのです。
ホストマザーの一言は私にとっては精神的な「救い」でした。想像を絶するような人権弾圧と暗闇のただ中で、このような絶対的な安心感を私はそれまで感じたことはありませんでした。なぜそのように確信したのかは言葉ではうまく説明できませんが、私はその一言に魂を揺さぶられ、フィリピン人から一生の贈り物をもらったように思いました。どのような非人間的な状況におかれても、人間は潔く生きることが出来るという強さとしなやかさは、その後、決して平たんではなかった私の人生の大きな糧となりました。
アメリカと日本が支える独裁政権
フィリピンに対する予備知識をほとんど持たずにスラムでのホームスティを開始した私が驚いたのは、年配のホストマザーを含めてスラムの住民たちがみんな新聞をよく読んでいたということです。1つの新聞をみんなで回し読みをしながら、アメリカや日本の政策がフィリピンに与える影響について盛んに議論をしていました。当時の日本の首相は中曽根康弘、アメリカの大統領はロナルド・レーガンであり、冷戦下において「ロン・ヤス」と呼び合うような親密な日米関係を築いていました。スラムの人たちは、自分たちに人間らしい暮らしを保障せず、暴力的な方法で弾圧を繰り返すマルコス独裁政権が大きな反対運動にもかかわらず崩壊しないのはアメリカと日本による支援があるからだと考えていました。US-Marcos Dictatorship というのが当時のスローガンであり、自分たちの抑圧に加担しているアメリカや日本に対する批判を募らせていました。
1970年代の田中角栄の東南アジア訪問の際の反日デモとその後の福田ドクトリンによる東南アジアとの相互信頼の構築など、日本の外交は日米関係を重視しつつ、アジア外交を発展させようとしていました。しかし、スラムの人たちから見れば、日本は戦争中は武力で自分たちを支配し、戦後は経済的に支配しようとしており、そのためにはマルコス政権に対する支持も惜しまない、いわば人権よりも経済利益を優先する国としてイメージされていました。
表面的には豊かで快適に見える
( ・・・ ) 日本と貧困と暴力が蔓延する世界の矛盾を抱え込んだように見える
・・・ ) フィリピンですが、植民地支配や戦争、経済的な関係、国際移動、などの観点から見てみると両国は実は複雑な在り方で結び付いています。アジアに対するアメリカの支配体制のもとで、相互依存関係を育んできた両国ですが、フィリピンはまるで日本を移す鏡だと思います。日本国内にいると「日本は良い国」「日本人は優秀」などナルシスティックな呪文のかかった保守の政治家や右派メディアの言説が蔓延していますが、フィリピンは日本の過去と現在を等身大で映し出す鏡を提供してくれます。フィリピン人は、都合の悪いことも見たくないことも映し出す等身大の鏡としてのかけがえのない友人です。1984年夏にカパティのスタディツアーに参加した私は、貧困、人権、開発、民主主義、ポストコロニアルなどの課題を同時代を生きる生身の人間の問題として理解し、その後、学生、NGO、研究者と立場を変えながらもフィリピンとの関係を持ち続けています。
小川玲子さんについて
千葉大学法政経済学部準教授。
社会学・移民研究を専門とされています。
http://www.le.chiba-u.ac.jp/member/ogawa.html
共訳書『フィリピンと日本の戦後関係 歴史認識・文化交流・国際結婚 』は、‛戦後の両国関係を草の根視点からも論述されている’、とamazonレビューも好評のようです。
また、アテネオ・デ・マニラ大学との共同ワークショップを学生さん達と7回も開催したご経験の持ち主で、今でもフィリピンと深く関わり続けていらっしゃいます。お忙しさに伴い、アップデートは2012年分までとのことですが、共同ワークショップのページの様子を垣間見ることができます ↓
http://www.law.kyushu-u.ac.jp/programsinenglish/cspaactivities.htm
その他、検索して頂くと、今世界的な社会問題でもある「移民」をテーマにしたインタビューにも応えられています。
<ブログ担当 お詫びと感想>
このたび掲載させて頂きました原稿は、なんと2年前にご準備頂いたとのこと。暑さ本番もすぐそこの今日この頃ですが、こちらの原稿をお預かりしたのはまだ寒さ厳しかった頃でした。原稿を書かれてから、合計2年半経過してしまったことになります・・・。個人的な慌ただしさにより掲載までにお時間頂いてしまい、誠に申し訳ございません。
このたびひしひしと感じましたのは、フィリピンを多角的に捉える・・・日本を、世界を、多角的に捉えるメンバーの層の厚さこそ、カパティの良さではないか、ということです。学生時代の純粋な原動力を冷まさずに、国際協力のお仕事に長年携わられ、そしてその後もご研究をきわめられ、フィリピンと関わり続ける・・・、なかなか出来ない凄いことだと存じます。
日本軍は、大東亜戦争で入国した先でも現地の人々と友好的な関係を築いたエピソードが多々ある一方で、フィリピンは激戦地であったと耳にしたことが有ります。小川さんのホストマザーが当時どのようなお気持ちで軍歌を歌われたのか、わたくしもお伺いしてみたい気が致します。また、戦争という非常事態の歴史を抱えながらも、70年後に(体験旅行当時の30年前も既に、でしょうか?)良好な関係を築けているのは、両国に名もなき方々をはじめ多くの善意の方々がいらしたからであろうと推察しております。フィリピンと日本、また戦勝国アメリカと敗戦国日本、など もっと色々と勉強が必要なことを再認識する機会となりました。
このたびはお忙しいなか原稿をお寄せ頂きまして、どうもありがとうございました!
原稿をお寄せ頂く直接のきっかけとなりました、シスター広戸、そして奨学金担当の寺島さんにも感謝申し上げます。