
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分。あの阪神淡路大震災から12年。
12年前、私は神戸市東灘区で被災しました。
明石海峡を震源地とするマグニチュード7.3の直下型地震「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」によって明石市、神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市など阪神間の各都市(兵庫県の沿海部とその周辺地域)、および淡路島北部が最大震度7の激しい揺れに襲われ、各地で甚大な被害が発生しました。
死者6,433名、行方不明者3名、負傷者4万人以上、家屋の全半壊24万軒(世帯としては約44万世帯)。地震による火災での全半焼約6,200軒超。災害救助法適用は兵庫県内10市10町にのぼる未曾有の大災害。まさか自分がこのような出来事に出くわすとは思ってもいませんでした。
交通関係も、港湾関係で埠頭の沈下等、鉄道関係で山陽新幹線の高架橋等の倒壊・落橋による不通を含むJR西日本等合計13社において不通となり、道路関係で地震発生直後、高速自動車国道、阪神高速道路等の27路線36区間について通行止めになるなどの被害が発生。
また地震発生直後から長期間にわたるライフライン(上下水道・電気・ガス・電話)の不通、消防・救急体制の混乱、各種産業・企ニへの被害、文化財への被害などがあり、被害総額はおよそ10兆円に達したそうです。
この時間ですから、当然私は寝ていましたが、ごーっという地鳴りを聞いた気がします。次の瞬間、ガシャン、バリバリ、バシンという破壊的な音とともに、まるでカクテルを作る時のシェイカーの中にいるような、左右上下前後・・・とにかくわけの分からないすごい揺れがはじまりました。私は上半身を起こしたままの状態で成すすべも無く「何か悪い事でもしたのかしら?何かの超常現象なのかしら」と思い、この揺れが地震とは全く思い当たりませんでした。それ位想像を絶する驚異的な揺れだったのです。「ああ、もう死ぬんだな」と思った直後に揺れが止まり、そこで始めて地震なんだと気がつきました。
地震直後は異様な静けさでした。
しばらくすると被災した人たちは、恐る恐る自宅から出てきて、一箇所に集まりはじめましたが多分その時、自分の置かれている状況を上手く把握出来なかったのだと思います。
今から何をしたらいいのか、何が起きるのか全く判断する事が出来ず、大きな揺れの後からもしばしば起きる、わずかな揺れにただ怯えているだけでした。
東灘区といっても、私の廻りはそれほど大きな被害も無く、その時は本当に悪運が強いと思っていましたが、その後、まるでボディーブロウのようにジワジワと様々なところにひずみが出始めました。祖父、叔父、父と、その後たった一年の間に三人の家族を失いました。心労が祟ったのだと思います。男手を三人も失った事は私達家族にとって、言うまでもなく大きな痛手でした。
震災に遭い、その後父を失った事で私の人生も大きく変わりました。
そしてあの時、もしかしたら死んでいたかもしれないと思うと、余計に自分らしく思い切り生きてみようという思いが、大きく大きくなりました。
あの一瞬のうちに多くの方が亡くなられた神戸も、完全復興などと言っていますが、もう私の知っているあの美しかった神戸ではなくなってしまいました。この震災で私は、環境が自分の意思に反して、否が応でも変化してしまうものだということを実感しました。私は思いました。周りが何時、どのように変化しても自分はいつも自分で有り続けられるよう、自分に対してとことん誠実に生きていこうと。
震災後からずっと自分の場所を探し続け、そして12年たった今、やっと自分自身を取り戻す事の出来る場所にたどり着けた気がします。まだまだこれからです。私の震災復興はまだ終わっていません。