なんてことをよく言われますが、いやいや。
やっぱり私はどこまでいっても日本が恋しい。
特に冬はなんだかとても日本が恋しい。
特に冬はなんだかとても日本が恋しい。
その理由をぼんやり考えてみました。
和食は確かに恋しいけど、大抵の日本食は実は手に入る。
和食は確かに恋しいけど、大抵の日本食は実は手に入る。
毎朝納豆ご飯と味噌汁を食べてるし、自炊するのは基本和食。
日本食レストランに行けばしっかり居酒屋メニューも頂ける。
つまり、まぁ食は何とか我慢できる範疇。
日本の友人たちが恋しい。それも一理ある。
日本の友人たちが恋しい。それも一理ある。
が、とはいえSNS全盛の現代、Facebookを開けばそこには皆んなの変わらぬ姿があり、
実際久々に再会した時に「あんま久しぶりな気しないね」というのはよくある。
もちろん体温の暖かさがないのはどうしようもないけど、
国際電話が高くて5分しか話せない、なんてこともなければ、
手紙が1週間届かない、なんてこともないわけで。
(時々そのもどかしさを敢えて味わうためにエアメールを書くのは割と好き)
じゃぁ何だ、と思った時に、「情緒」ではないかと。
そう、NYにはなんだか情緒を感じない。
(時々そのもどかしさを敢えて味わうためにエアメールを書くのは割と好き)
じゃぁ何だ、と思った時に、「情緒」ではないかと。
そう、NYにはなんだか情緒を感じない。
日本の冬にしかない美しさが、どうもこうも恋しいのです。
もちろん、街並みや建造物やアートを眺めて、
もちろん、街並みや建造物やアートを眺めて、
視覚的な「美しさ」を感じることは多々あります。
NYはその意味で言えば宝庫なわけですし。
でも、例えば「深々と降る雪」は、ここにはない。
でも、例えば「深々と降る雪」は、ここにはない。
どうも、その表現は似合わないんです。
きっと静寂がないせいかなぁ、と思ったり。
さらさらと降ってくる雪に、静寂と、健気な木々の哀愁や儚さがあいまって、
初めて日本の雪は美しいのでは、と考えるのです。
NYでそれを感じることは、うーん、なんだかできない。
静寂、というのがまた、NYでは見つかりにくい。
静寂、というのがまた、NYでは見つかりにくい。
ただの無音、とはちょっと何かが違うような。
(そもそもこの街で無音を見つけるのも難しいわけですが)
静寂というのは、どことない緊張感漂う空気に、
「無」の空間が合わさった場である気がします。
そんな静寂の中深々と降る雪は、スローモーションのように、
あるいは静止画のように温かみを伴って脳裏に残るけど、
ここではそれがどうもないんです。
情緒ある景色というのは何だか切なさがありますが、
情緒がないと、もっと「悲しい」に近い「切ない」になる感じがする。
だから余計に日本の、淡く儚い精神性の「美」が、
情緒ある景色というのは何だか切なさがありますが、
情緒がないと、もっと「悲しい」に近い「切ない」になる感じがする。
だから余計に日本の、淡く儚い精神性の「美」が、
とにかく恋く感じてしまう今日この頃です。
情緒的な日本の歌なんかを聴いては、描かれる景色を想像して、
情緒的な日本の歌なんかを聴いては、描かれる景色を想像して、
穏やかな気持ちを取り戻す日々を送っております。
そんな風に、まさかのバレンタインデー、
一歩も外に出ず過ごしてしまいました。笑
美しい日本語はスーっと腑に落ちてじわーっと広がってくれる気がします。
みなまで言わないところが、また奥ゆかしくて良いいなぁ、と。
アメリカの歌は結局"she is beautiful & I love you"ばっかりで
やっぱり全然入ってこないんだよなぁ。。
明日の予報は今季最低の-16℃らしいけど…
明日の予報は今季最低の-16℃らしいけど…
日本ではそろそろ春の前兆、梅が咲く頃ですね。
日本にいた時は、湯島や府中の梅祭り牡丹祭りに出かけては甘酒を頂くのが好きでした。
八王子の実家の梅の花も、蕾がたくさん咲く準備してるのかな。
早く、こっちの春も来ないかなぁ…
早く、こっちの春も来ないかなぁ…