

17 ヤコブはさらにこう述べます。「信仰についても同じです。それが行動に至らないなら,それ自体としては命のないものです」。(ヤコブ 2:17,新英)これは真実です。次にヤコブは想像上の人物を引き合いに出してこう述べます。「しかしながら,ある人はこう言うことでしょう。『あなたには信仰があり,わたしには業があります。業を別にしたあなたの信仰をわたしに見せてください。そうすれば,わたしも自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう』」。(ヤコブ 2:18)ここで論じているのは,モーセの律法に従う業とイエス・キリストに対する信仰のいずれが救いに至るか,という点ではありません。そうではなく,生きた現実の信仰と,死んだ命のない信仰とを対照させているのです。別の翻訳はこの部分を次のように表現しています。「しかし,ある人は異議を唱えて言うでしょう,『ここに,信仰があると唱える者と,自分の行ないを指摘する者とがいます』。それに対してわたしは答えます,『あなたの言うその信仰が行ないが伴っていないのに現実のものであるということを証明してください。そうすれば,わたしの行ないによって,わたしは自分の信仰をあなたに証明します』」―新英。
ヤコブ2章17節
17 このように信仰も,業が伴っていないなら,それだけでは死んでいるのです。
ヤコブ2章18節
18 しかしながら,ある人はこう言うことでしょう。「あなたには信仰があり,わたしには業があります。業を別にしたあなたの信仰をわたしに見せてください。そうすれば,わたしは自分の信仰を自分の業によってあなたに見せてあげましょう」。
17 ヤコブ 2章18節の要点はなんですか。
信仰を生きたものにするために、
エホバの教えを行なう者となりなさいということでしょうか?
痛いですね。
体動かないし、自分をまた裁いてしまいますね。
でも、日々努力します。
適応できるようにします。
ひーーーーーー。