9月8日(土)丙巳・九紫
9月9日(日)甲辰・重陽の節句・八白・赤口・あやぶ・虚・月が水星の北00°56′を通る



占いの現場の前で、

この人は、ある私の見立てから、誕生日を当てられる率が高そうだと思い、


「誕生日を当ててみましょうか?」

「そうなんですか、言ってみてください」

「2月1日に近いでしょう、おそらくは」

「近い!1月後半生まれです」

「当たりましたか」「誕生日を当てる占い師というのは、すごいですね」

「いつも当てられるわけではないんですけど、あなたの場合は、当てられました。もちろん、たまたまかもしれません」


*色々なフォーメーションからの判断です=フォーメーション=私とある距離に近付いた人の言動などからの判断です。


その後で、あぁ、考えると、この方に石ノ森章太郎漫画について、少し話せばよかったと思いました。理由は、誕生日がほぼ同じゆえ。


調度、石ノ森章太郎生誕80周年で、特別番組が今年は多いですね、

24時間TVの自伝ドラマは見逃してしまいましたが、朝ドラでも、(ギャグ漫画を模索しつつその分野からのあきらめ感のある、私は迷作?という印象だった)「ドンキっ子」を取り上げて、今の2号店のきっかけになっていますし。

昨日の『100分de石ノ森章太郎』は、倍速視聴はしましたが、

7月末に、石ノ森作品が、世の中に与えた悪影響論を書いただけに、観ておこうと思いましたが、

ゲストがわからないと言われた点で持論があるので、

今日はそれについて触れてみましょう。

あぁ、ゲスト陣、よかったですが、呼ぶべき人が足りてないでしょう、

東映から一人(出来れば八手三郎氏の直系の方)

漫画について尋ねれば回答の早い岡田斗司夫さんや、(来ないでしょうが)庵野秀明監督など、気付かれていることを多々、口にされたような気がします。
時間と空間をうまく捉えている夏目視点との掛け合いで。

現代は、漫画論も多く、あえて書く必要のない、意味の無い石ノ森章太郎論だと思っていましたが、

『100分de石ノ森章太郎』が意外と面白かったことと、

自分が少し指摘できる枠が、語られていなかったので、


評論家の口にする領域と、そのことについて、作者の視点から考えていたことの部分で、どうしても、言葉に出来ない部分があるということでしょう。

例えば、ゲスト枠でも、石ノ森空間、その閉じた世界の中で、どうしても、論じてしまい、

時間軸、時代とのかかわり方について語られたのは、

特に夏目さんと、宇野さんだけでしたので、

この二人は必要で、でも、夏目さんでさえ、「幻魔大戦」が、完結しなかった理由がかわからないと言われて、


その理由は、謎のまま。名越さんのご友人の「月が相手だから」で一応、決着したようですが。その理由は、こうだと思うのです。



石ノ森章太郎という方は、新しい型を模索することを第一義としていて、その他の理由は、第二とする考えだったのではという作者の思考です。

実は、この視点から漫画の歴史をきちんと、解釈したものがなく、

皆、時々触れて、

また別の話題を論じる繰り返しが「漫画評論」の歴史なのですが、手塚治虫発案のデザインに対して

、当時、それを元に、新しい絵(特に顔と髪型)の型を考える歴史が続き、

その接戦の最初の勝利者が、石ノ森章太郎さんだったと分析できます。


 

ただ、手塚系統で、少しアメリカ風なタッチに洗練させたのが、009で、

髪型は模倣しつつアトムの黒髪に対し、茶髪にして、何としても独自性を出したかった葛藤。

で、やりすぎた髪型が002


子供の頃に気付いたことなのですが、そこで私が思い至ったのが、

あぁ、もう漫画は全て型になっているから、

あえて、自分が描く必要もないかもしれない?


 

そんな時に聞いたあるバンドの音と歌詞にカルチャーショックを受けたことで、その時に「漫画で色々な表現が出来ると思っていたけど、漫画では表現できないことがある」と察した、あるバンドの表現力でした。

その視点は、先ほどの、「幻魔大戦」(私には、あまりピンと来ない作品。まず009の二番煎じ的な作品ですし

キャラクターの絵も似すぎ)の未完の理由とも絡んできます。


 

何故なら、作者は、新しい表現を模索していた人だと思うからです。


 

音楽のセンスがなさすぎて、音楽技術の低いバンドの表現に影響を受けたことで、私は人生が狂ってしまいましたが、

漫画とかサブカル面は、そういう視点だけ、もしかすると、センスが高く、絵を描いてコツコツ、やろうとか、そういう風に向かわなかったのかもしれませんが(子供の頃は描いてましたが)、


 

ある(故人の)詩人の方と話した際、寺山修司との思い出を聞かせていただき、「寺山さんはコラージュの人、あれほど、いろいろなものを外から取り入れた人はいない」と言われましたが、

少し言い過ぎではと思ったので、「コラージュ詩人であるのかもしれませんが、言葉が高く高く積み重なって、それを吟味して、搾り出していると思うのですが。その積み上げていく一つ一つがコラージュで」と、今書いた半分のことまでは、意見として口にしました。


 

石ノ森章太郎さんも、そうだと思うのです。あらゆるデザインを取り入れて、


 

特に手塚スタイルを基点に、海外にまで広げて、色々な顔や、洋服、自動車デザインまで、

取り入れて、すべて作品にしていったために、

あれもこれも、中途半端に外観だけ取り入れて、

思いつきの連続で、コラージュをものすごいスピードで、漫画にしていった50-70年代初旬だったような気がします。


 

「佐武と市」にしても、白土漫画+座頭市でしょう、


 

デザインの型は。白土三平さんと藤子不二雄さんと石ノ森章太郎さんが、


手塚デザインからの三大継承者でありつつ、

変形後継にまで至ったと私には観えますが、

三名の特徴は、白土三平=絵柄は継承しつつ、

横山光輝風の時代劇も継承し、手塚風の髪型と顔でありつつ、特に目に鋭さと陰り、

雰囲気など、シリアス路線を開拓。

藤子不二雄=オバQ以前までは、

(手塚作風と)ほぼ同じ絵柄で、ドラえもんで独自の顔の型を獲得。

正統的な手塚治虫の後継者。特にF氏が。

石ノ森章太郎=髪型、顔は、最後まで手塚路線から脱却できず、


学生運動全盛期で、時代は、リアリティを求めて、


手塚漫画は衰退し、反体制的なヤクザ映画や白土三平漫画が流行する中、その葛藤で、暗いものと向き合いつつ、


アトムの路線からは抜け出せず、


仮面ライダーの顔の型で、手塚デザインから脱却。


新しい顔、仮面の型に到り、

しかし、漫画は、敵が来て、戦い、時々悩む(これが、石ノ森章漫画の特徴)


しかも、敵が来て、闘うというパターンは、009では、かなり工夫していたのに対し、ワンパターンにしてしまった。


イナズマン、ロボット刑事、アクマイザー3でも何でもすべて、同じパターンです。


デザイン(仮面)だけ違い、方法論は同じ。

なので、


ここで、以前書いたように、ドラマ(物語)と、漫画が、分裂したわけです。

さて、東映の要請で、デザインだけたくさん描いて、漫画にもう集中できないほど忙しい中で、

年齢もありますが、


私は、石ノ森章太郎さんは、こう考え始めたのだと思います。

009でブラックゴーストとの戦い(確か6巻?)で、敵との戦いの型、その表現の型が、限界となった。

ゆえに、その後、天使編を描いても、未完で終わり、

次々未完で終わった。

ゴレンジャーも確か、原作は未完だった記憶が?

そして、未完になる理由が、

先ほど触れた「幻魔大戦」の続きが描けない理由でもあると思うのです。


石ノ森章太郎さんの頭には、第一義が、新しい型を作ることと、私の想像に触れましたが、その新しい型しかも、幻魔という巨大な魔の敵との戦い方、その結末、ボスとの戦い、そして戦いの終わらせ方の型が、また009のようだと、また同じかと、読者の声を、想像したのではないでしょうか?

とにかく、新しい型にこだわり、戦隊のデザイン一つでも、どうしても新しい型にしたかった性分ではないですか?


常に新しい型を優先する強い性分。

まったく同じ日に生まれた松本零士さんは、それに対し、列車にしているので、やや新しい切り口で敵と、戦う型なので、

あぁ、松本さんが描いてなければ、平井さんと話して、列車で宇宙を進んでいく話しにすればよかった、

少しの工夫でも、新しい見せ方は出来るかもしれないと考えたと推察。


しかし、地球にいて、大地の上にいる設定だと、いつもと同じで味気ないもう同じ繰り返しの戦い方法その行き詰まり感で、


その後、次第に、ナチュラル路線に向かわれたのでしょう。


本来「ジュン」のような詩的な作品が、評価されるべきだったと思いますが、


あまりに格好よいデザインを仮面ライダーとキカイダーでやってしまったので、もう、その路線から後戻しできなくなりつつ。


ですから、新たな企画「グリングラス」でしたか、

あの作品で、緑の大切さ、自然と向き合うことを描きつつ、絵が、キカイダーや、仮面ライダー風なので、


結局、もう新しい型を築く仮面デザイナーとしても新しい型の模索にも限界を感じ、


そして、ただひたすらリアルなホテルマンを描いた「ホテル」の執筆の流れになったのだと思います。

宇野常寛さんが言われた「仮面ライダー1号のデザインほど、素晴らしく、格好のよいデザインはないと思う」との声は、

大衆の声の代表でしょう。

しかし、出来た背景は、仮面ライダー1号こそ、

手塚デザインを超える目標に対し、顔では限界なので、


仮面にして、マグマ大使とかよりも確実に洗練された、新しい顔の型を手にした瞬間でしょうから、


 

今のライダーは、その模倣だけなので、
 

一つ目の発案は難しくライダーも戦隊ものも、パターンだけ後継しているということでしょう。


 

ですから、それが時間軸時代論そういう背景があり、

石ノ森章太郎さんは、漫画を、デザインに近い漫画を描いてきたので、同じ方向を向いたライバルも多く、モチベーションが、上

向けたはずなので、


今だと、そうなりにくいでしょう、漫画が飽和状態で、

特に趣味で描けばいい感覚でもいいし、

商業系でも、多種多様で、独自性を一つでも獲得できれば、成功と呼べるはずです。

石ノ森章太郎さんを論じる際、その時代性と、モチベーションの理由時間軸それらを考えて論じると、


 

こうして、幾つか作者の考えていたことがわかるのではという趣旨で、書いてみました。


 

特に、今日書いたことで価値があることは、


 

スタジオで、「幻魔大戦」が、未完で終わったことが、わからないと、皆が口にしたことに対して、

一つの回答(新しい型、戦い方、ボスとの最終決戦など、そういう戦い方の新しい型を想像できず、009などと同じような終わらせ方しか思いつかず、挫折したという私の論)を

用意したことです。あの場面で、人物がこう思ったとか、枝葉ではなく、

石森スタイル、石森方法論の本質。


 

それは、新たな型を作ることが第一で、

(作者の心理→)また、髪型は、手塚に似てしまった、


 

では、次は、今流行しているフォークソング・スタイルを取り入れてみよう!ジーンズを履かせて、ギターを背負わせよう、ただのギターではなく白いギターだと、

サングラスは、この角度で。

そう考えて、おそらくキカイダーは、ギターを背負うジーパン・スタイルだったのでしょう。常に流行をいち早く取り入れ、スピードで、流行を取り入れ、すぐ新しいものを取り入れる。

闘うシーンでも、ウルトラマンが、十字で光線だから、手はやめて、足だ、キックにしょう、

ライダーのキックだから、ライダーキックだ。

おそらく、その後も携わっていたら、足は使いすぎたから、車椅子などにして、思念波とか、

パターンから外れたい人なのに、パターン継承のライダーと戦隊ものだけ残り、009や、ジュンなど、

漫画として当時では、

斬新だったはずのものが、忘れ去られているのは、やはり絵でしょう。

もう、あの絵柄が古いため。実は、一番、評価されるべき作品は「ギルガメッシュ」かなと思います。


 

おそらく、手塚サイドが「三つ目が通る」で、古代文明を描いたので、もっと考古学を深めたものを描こうと、シュメール伝説に挑戦。

しかし、あまりにも、専門的でマニアックな作品なので、受けなかったのではないですか?

自宅に大人一人が入れるミニ・ピラミッドを置いて、そこで瞑想されていたのも、新しい型の模索と歴史の謎解き


 

その人生は、発案と、宇宙文明の生存などを、本気で、探求したいという強い意志もあったのでしょう、


 

思い込みがないと、

あそこまで宇宙人や怪人を造詣できなさそうですし。


 

そして、そういう石ノ森章太郎論から、


 

前回書いた、さらに新しい視点である「ライダー、戦隊ものは、漫画と物語を分離し、子供に悪影響を与えた論」に繋がっていきます。


 

ですから、今のライダーや戦隊ものは、石ノ森章視点から視ると、新しいものはなく、型を破る作者の意図とは反対に至り、


そして、番組の作り手も、

たまたま維持できているので、終わらせる理由も見つけられないのでしょう。

東映が最初に、考えた今はスポーツ漫画が人気でもやがて衰退する。

そこで新しいものを企画しよう。


 

出来れば、大人気のタイガーマスクのようなものがいい。


 

そこで、石ノ森章太郎先生に、相談に行こう。


 

と、始まった仮面ライダーの企画。


 

ただ、そこで、何故、タイガーマスクのような魅力的なストーリーに、仮面ライダーは、ならなかったか、


それに触れる人がいないようなので、

あえて言いますが、

それは、タイガーマスクは、仮面が先ではなく、梶原一騎という、苦境から脱却していく、努力型人間を描く天才、しかも言葉のセンスが高い、美学の高い脚本家が、真剣に原作を書いていったからでしょう。


 

それに対し、脚本家のせいというより、敵が現れ、変身して、ライダーキックで、確実に終わらせる。

タイガーマスクのように、葛藤の時間も技のバリエーションも、技を習得するための命がけの模索もなく、孤児院に出入りする人間臭さのような面も、ライダーにはない、

まるで、敵と戦い、当たり前のように、ライダーキックで決めるという単純な図式にしたことで、

雰囲気や、デザイン・センス。当時、これほどオートバイを魅力的に描いた作品はないですし、格好良さが先行した作品で、


 

内容はうすっぺらいですよ、

(格好、雰囲気などは、仮面ライダーの方が上ですが)


それならライダーの末裔のような位置だと思う作者の「グリーングラス」を読んでみてください、内容がありますから。まだ。


そして、梶原一騎さんも、きちんと、脚本の本質や、見せ方、人間の描き方が優れているので、梶原一騎が描けば、視聴者は、何故か、惹かれる、何か、いい方法論を持っているはずです。


 

少し、大藪春彦さんの系統のような気もしますが、

大藪春彦さんこそ、言葉の人で、言葉のクオリティが高く、

物語とは、まず、言葉ありき。


 

しかし、石ノ森章太郎さんが、それを完全に変えてしまったと私は分析します。そして、

その基点が、初代仮面ライダーの放送だったのだと。  言葉から考える物語を、仮面から考える物語へと。ドラえもんでさえ、毎回、敵が来て、ドラえもんキックで、敵を倒して、バイクでなくてもよいですが、


風を切って、これで一つ世界の平和が守れたという単純には、終わらせないので、実は、仮面ライダーとは、物語としては相当、単純な作品で、格好がよすぎて、真似をして、

人を叩けば、叩かれた方は、悪の化身だから、ライダーの真似事をしている自分が正義だと、思いこめるすり替え心理を学んでしまう、問題作なのですが、

格好いいデザインのオートバイに、(009と同じ)赤くて長いマフラーをなびかせ、

風を切る20世紀最高クラスの仮面デザインのヒーローが、突っ走るこの格好良さが、魔法をかけてくれ、東映と玩具メーカーと、バイク推進の恩恵を受けたバイクメーカーには救世主。 そういう風に考えられそうです。



文字オーバーで以下、いつもの情報欄はUPできず。