
きわめてローカルの話題ですが。。。。
以前、飯田線の列車は、国電で使われていた車両を
使用していました。
カンポおじさんが高校生の頃走っていました。
「ゲタ電と言われていました。
←写真をクリックすると新旧駅舎の様子「ゲタ電」とは、都会で運転されていた時代に「ゲタ代わりに乗って出かけられる」、 つまり「気楽に乗れる列車」という意味で主に「通勤型」に付けられた愛称でした。
その「ゲタ電」に乗って高校に通っていました。
その時いつも利用していた、思いで多い乗車駅が2004年に新築されました。
鉄道ファンの聖地「田切駅」の隣に駅です。 旧駅舎の写真がありました。現在の駅舎と比べて記録しておきます。(写真をクリック ) 旧駅舎を見ると我が青春時代を思い出します。 「俺も17歳という時代があったんだ!!!」。。。。。。
飯田線は開設当初から電車です。
ほとんどの国鉄(JR)が蒸気機関車だった時代に電車が走っていました。
重要な理由があると言われています。
(小学生の頃先生から聞いた話 他の理由があるかも知れない)
それは、明治、大正、昭和の初期の時代
ここ信州・伊那谷は「蚕」を飼うのがさかんで、農家の重要な収入源でした。
このため「餌」になる「桑の葉」の栽培が必要でした。
この桑の葉に蒸気機関車の煙りがかかると「蚕」によくないというのが、
その理由です。
収入源を守るために、蒸気機関車全盛時代に、技術的にも難しかったと思われる
「電車」を引いた伊那谷の先人を尊敬しています。
ちなみに、蚕の作る「繭玉」は「生糸=シルク」を作ります。
ナイロン(合成繊維)ができるまで、重要な繊維であったことは、
ご存知のとおりです。
伊那谷で作られた「繭玉」は東洋のスイスといわれた「諏訪地方」の工場に
送られました。
ここで、シルクに加工され、海外にも輸出されました。
ああ 野麦峠の小説 はここから生まれました。
その頃から信州・伊那、諏訪地方は、山奥で都会から離れているにもかかわらず、
工業が盛んに行われ、物つくりの精神が近年の精密工業に受け継がれています。
その代表的な企業が。世界のSEIKO、そしてEPSON。。。。
こう考えてみると、まさに飯田線が当初から電車であったことの結果が
現れていると思い、
先人の先見の明に感謝します。
なお、「蚕」のことを、祖父や祖母の世代の人は「お蚕様」と言います。
「お」と「様」をつけていることが、重要な収入源だったことをうかがわせます。