「明日、ママがいない」は herd Full 作品である。 | かんみろぐ

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ファミコン世代の現役高校生という謎の属性を持つちょっぴりヲタクな
UMA甘味堂という人物のどたばた日常記録という名前の日記。
+ポタリング記録とさいたま市某区の空記録がメイン?

ぶっちゃけてしまおう、始めは私も放送局中止が妥当だと思った。
しかし、GooglePlayで明日ママを(無料視聴期間内で)何度も視聴してるうちに考えが変わった。

明日ママは、あえてあのまま放送した方がいい気がしてる。

「倫理感がない放送局・作家・脚本家・監督」だけがあの作品を産んだのではない。

児童養護施設や児童自立支援施設等の子どもや私生児(父親に始めから捨てられた子)等…差別の筈を「区別」と呼んで悦に入ってる殆どの民が作り出した。

たとえば、「児童養護施設や児童自立支援施設の子が可哀想」ってステレオタイプをほとんどのこの国の民が持っているとおもう。
そして、里子や養子にもらわれた子とそうでない子に上下がつくことも「区別」という名前の差別を近代まで普通にしてきたし、今だにしてる人もいる。
(うちの養父がまさにこれだけど)

だから、そういう差別とされるはずのものが、区別とされてきた歴史もしみついちゃって「頑張って生きてる」と…「明日、ママがいない」を感動作という勘違いをする人も出るのだ。


本当はあの作品に描かれてるものは、感動でもなんでもない。

「最後はハートフルになってゆくんですよ」なんて制作側は言ってたが、私が3話まで見た感想は「herd Full(ハードフル)」だ。

3話なんか酷い。
「大人の都合に巻き込まれ傷つく子」が出まくる。

これのどこが、hert Full(ハートフル)か?
herd Full(ハードフル)以外の何物でもない。

ただのこの島国の民のほとんどが心の何処かで持っている、【すてられっ子】に対する偏見とかがドラマという表現になった。
それが、「明日、ママがいない」なのではなかろうか?

そうすると物凄く見れば見るほど私の中では、納得が行くのだ。

一種の社会病理として。