こちらでもちょろっと書いたが、西安の思い出話。

 

実際に現地に行けたわけではないが、思い出がある。のでメモ書きとして。

かつて、上海などにあった有名大学などは手狭になったという理由で西安に引っ越した大学もある。そういった大学を市街中心に持ってくるために、古跡を移動したり、移動にあたって調査をしたりを繰り返したところでもあるようだ。

カンコロは四国徳島に住んで30年になる。徳島には弘法大師の修行の場、四国八十八か所の一番札所がある。

空海は中国に留学していた。まず、寧波港から河を遡上し、目的地西安へ行ったという。その足跡が残る西安市。

西安の中心街に、観光名所の青龍寺がある。ようだ。←行ったことがないから。

空海と縁のあるこの寺、八十八か所の零番札所となっている。中国人は知らないと思うが。零番札所というのも魅力的だった。のもあって、採用試験に応募した。

 

採用試験の面接のとき、面接官になぜこの地を選ぼうと思ったかと聞かれて、

「空海と縁のある四国に住んでいます。はじまりは寧波市でこの仕事をはじめました。最後は西安の地で終わりたい」とか何とか言ったと思います。

面接官にその場で「確かにご縁がある。是非、いらしてください。」と言っていただきました。日本語でさらっとこういうことが言える日本語の中国人先生素晴らしい!!

で、奇遇にも徳島大学に留学していたという先生もいらっしゃることを教えていただいた。西安に来られたらご紹介しますよと言ってくださった。残念ながら、お会いする機会はなかったが、

え?徳島大学は工学部が有名で、日本語専攻はなかったと思いますが。とつぶやくと、

その先生の専攻は工学で、博士をとったのだそうだ。西安電子科技大学は基本的に通信に関する先駆的研究の大学で、中国で有名なスマホの「华为」の創始者やトップたちはこの大学の卒業生のようだ。その中の語学系は英語と日本語だけだ。世界的に技術先進国の技術を学ぶため、できた学科だろうと想像する(諜報活動をする目的かも?)。今ではその意味は薄れたが、大学生の日本語作文コンクールではトップ常連大学の一つだ。ところが、だ。日本語学科より日本語が上手なのは、作文がうまいのはその先生がいる工学部の学生だったのは偶然ではないと思う。教えていただいた名前も忘れてしまった、徳島大学工学部博士の先生は、機械工学と日本語の双博士という。

日本留学の経験者の多い先生方の中で最終目的が日本語ではなく、日本語を使って機械工学の博士を目的にされたのだから、さもあらんだ。

しかも、中国の大学受験の構成上、上位学科に点数が足りない学生が、大学の基準点に達していたら、日本語学科に回るという。そういう学生と自力で上位学科に入った学生との能力の差でもあると思う。

話は逸れるが、日本語の学生たちの作文を読んだり、話を聞くことがあると必ず、日本語科になったことを恥ずかしいという。大学は誇れる大学だけど、日本語だと知ったとたん、(それも、日本人は理解しずらいがそういう中国の受験システムだ)がっかりしたという。卒業後の新卒給料の差も大きいという。

そんな失意の中日本語を学び始める学生たち。がほとんどだ。

 

もとい、学生の作文コンテストの作文を見ても、驚くほど立派なものがある。

その作文を書いた学生が質疑応答の練習をしてほしいと言ってきたとき、

「こんな立派な作文を書く人に教えることは何もありません。思う通りに応えればいいですよ。」がんばって!!と、応援したつもりなのに、彼女はしゅんとしょげていた。クラス委員長で美人で背の高い彼女。話をしたら、到底その立派な作文を書ける日本語力ではない。でも、練習は徹底的にしているようで、本文の朗読は素晴らしい。作文指導をしたという日本人の先輩に聞いてみたところ、彼女が書いたものではないだろうという。最初の作文から完成度は高く、なおすところはなかったという。朗読の練習をしただけともおっしゃっていた。先輩は徳島大学に留学したという先生のことはご存知なかった。が、だれか、作文の上手な人がいるはずだとおっしゃっていた。日本人は学生の作文を書くことはしない。ともおっしゃっていた。

ずっと、寧波の三年制の学院にいたので、こんなことがあるとは知らなかった。先輩も中国の高校で長く教えていらして、四年制大学は初めてだとおっしゃっていた。それでも数年滞在中に作文指導したものが数本一等賞を取ったという先輩だ。

作文は日本語の上手下手だけではない。表現の豊かさも必要だし、何より主題を深く考慮・考察できる力が必要だ。そのすべてを兼ね備えている作文を書けるとは、本当に素晴らしい。日本人でも書けないような作文だった。当然一等賞をとった。

この大学の日本語の学生数は一学年30人。休学や他の学科に行く学生もいるから総学部生は実質100人くらい。大学院もあるから総数はもう少し多いだろうが学部より多いわけがないから、せいぜい150名くらいのはず。それにしては教員数が多い。20名くらいいた。(寧波の学院など300人以上の日本語科の学生に対して教員8名だ)しかも日本の有名大学筑波大学、九州大学等日本語研究で有名な大学の博士留学経験者ばかりだ。日本人も3人いた。学部は実質3人の中国人と日本人3人が普通の授業を切り盛りしているので、他の先生方はひたすら研究職だ。という感じ。

 

有名大学にありがちな宿舎が古すぎて、雨漏りするとか、冬は道が凍結して危ないとか、実際学生が自転車で凍結した道でケガをしたという報告が一冬何件かあった。宿舎が不便な場所にあるとか。先輩から聞いた話では、住みにくいらしい。

給料も低いし。中国の大学、有名になればなるほど日本人は安いらしい。

でも、西安の街は古都らしく、見るべきものは多く、食べ物は美味しいという。お酒が飲めるのならなおいいと、二人の先輩はそう教えてくださった。同年代の女性ばかりだった。が、親切だった。お一人作文の朗読やスピーチコンテストの指導を主にされていたのは東京の方、中国語ができるもう一人の方は中国語で授業をされていた。

主に中国人の先生とペアで担当科目を持つので、中国人教師は3名、日本人教師は3名で学部の授業を回していることになる。はじめてのカンコロは免除された仕事が多かったようだった。中国語のできる先輩は中国語ができることで、負担が多いと嘆いておられた。その先輩方はコロナ禍、冬休みに帰国したまま戻れなくなってビザも切れてしまったそうだ。東京の方はともかく、もう一人は九州在住で、ビザの申請は大阪か東京の大使館/領事館に行かねばならず、その手間を考えると当年限りで退職を希望されていた。東京の先輩は年齢が上限に達したので、最後の一年だったのに、荷物も取りに行けないと、嘆いておられた。

皆さん荷物はどうされたのだろう?国際宅急便か、郵政局の船便で送ってもらうにしても、荷造りは誰がするんだろう。見られたくないものもあったろうなぁと、思うと気の毒だった。

西安の街を先輩と一緒に歩いて、西安の食べ物を食べて、おしゃべりしたかった。

と、今でも思う。

でも、カンコロは、西安の職場に提出する前職の在職証明を依頼した学院の副院長のお誘いで、もう一度寧波に行くことにしたので、日本人3人。全員退職となった。

一生懸命、大学のネットの使い方を教えてくださった中国人先生はがっかりされていて、申し訳なかった。もっと早くに継続の契約の話をされていたら、残っていたかもしれなかったが、その前に寧波の学院と約束してしまった。本当は西安に行きたかった。雨漏りする宿舎も見て見たかったし、何よりこの大学には太極拳館という建物が存在しているのだ。それもどんなものなのか見たかった。日本人の先輩方は知らないそうで、構内図も見たことがないと言われていたので、仕方ない。

スペイン人の元学院の同僚もすぐ近くの大学に採用されたと言っていたから、何事もなければ、再会を楽しめただろう。西安のある陝西省は外国からの渡航を許可をしなかったので、スペイン人の彼女も来られなかった。冬休み帰国しなかった外国人だけが残っていたそうだ。残っている外国人にはビザは出たそうだ。

 

と、未練がましいメモになったが、残しておく。

 

 

春には桜も見られたろうに。あぁ~未練タラタラです。

泡馍,凉皮,ビャンビャン麺、食べたいです~←そこかい?!ですけど。