山陰游紀を読む(5) | かすみちゃんのブログ
2019年01月08日

山陰游紀を読む(5)

テーマ:香住の昔

こんにちはかに座 またまた山陰游紀の続きです。

 

 

 門前に草葺の家があり、ここにもまたパナマ帽や山高帽の人々が群がっている。人を押し分けて中を見ると、この家は傘作りをしている店で、傍らで大乗寺宝物の絵はがきを売っている。埃にまみれたガラス板を蓋にして、小さく仕切った小箱の中に数種類の絵はがきが入っている。百の指がその箱に集まり、百の口が孔雀をくれ松をくれ、芭蕉と唐子のをくれと喚き立て、百の手が銀貨銅貨を握りしめて群がっている。1本の大黒傘も全く貼り終わりそうにない傘作りの老人は、慌てふためきながらも群がる客のなすがままに任せている。箱一杯だった絵はがきはやがて秋風が落ち葉を払うように一掃され、あとには銀貨や紙幣の山のみが残った。客の群れがさらに記念のスタンプを探していると、寒山拾得に似た2人の少年がどこからともなく現れて、紫インクのゴム印を手に取るなり乱雑に押していった。清浦子爵、石黒男爵、大木伯爵、土方伯爵もまた、この群衆の中にいる。

 

パナマ帽・・・パナマ草の若葉を細く裂いて編んだ紐で作った夏帽子。

山高帽・・・男子の礼装用帽子の一つ。フェルトでかたく仕立てた、山が高く丸く、つばのあるもの。

唐子・・・中国風の髪型や服装をした子供。

寒山拾得・・・寒山と拾得。中国・唐代の伝説的な僧。後世、禅画などの好題材となった。

 

 この寺は行基の草創で、今は高野山の末寺である。聞くところによれば、中興の祖・密英上人の時、円山応挙は丹波穴田の故郷を去り、放浪の末この寺に移り住んだ。密英がその境遇を憐れんで志を尋ねると応挙は、「私に銀貨3貫があって京都に上り、石田幽汀に弟子入りできたなら、私の願いはそれで足りる」と答えた。密英は応挙が只者ではないことを悟り、望み通り銀3貫を与えた。後に応挙は偉業をなしてその名は世に高く知られるところとなり、密英は自らの目に狂いがなかったことを誇りに思った。応挙もまた密英の恩を忘れずにしばしば安否を尋ねた。ある年火災にあって、アトリエが焼けてしまった時、図らずも余暇を得たことを格好の機会として、呉春、芦雪、源綺、素絢および長男の應瑞を連れて自らこの寺を訪れ、半年間思いのままに筆をふるい、これをもって在りし日の徳に報いることができたという。絵の他に、この巨匠と名僧の敬うべき逸話が伝えて、見る人にまた別の感慨を抱かせている。

 

行基・・・奈良時代の僧。和泉の人。

石田幽汀・・・江戸中期の画家。

 

密英上人(あるいは密蔵上人)が円山応挙に学資を工面したという伝承は今でも根強く残っていますが、その信ぴょう性については議論がなされるところです。大乗寺円山派関係文書によると、先師密蔵上人の意志を継いで伽藍の再建に奔走した密英上人が天明7年に京都に出かけ、応挙に襖絵を依頼したとあります(『至宝 大乗寺 円山応挙とその一門』参照)。襖絵は京都のアトリエで制作され、大乗寺へ運ばれたというのが定説となっています。しかしこのような伝承の生まれた背景には、「なぜ、当時京都の超有名絵師であった円山応挙とその弟子たちが、都から遠く離れた大乗寺のためにここまで多くの襖絵を描いたのか。そこには何か特別なご縁があるのではないか」という疑問があるのだと思います。真相は分かりませんが、大乗寺が円山派の美術館ともいえる「応挙寺」の名前に適った寺であることは確かです。

 

ちなみに門前の傘屋は今はありません。誰の商うお店だったのか、すごく気になります。今あるのは、円山菓寮というかりんとうやさんです。次は香住を出て余部へ。あと1回、もうしばらくお付き合いください星

 

 

香美町香住観光協会 http://kasumi-kanko.com/

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