登城日 2012年10月 6日(土)曇
難易度 ☆
場所 岡山県瀬戸内市長船町福岡49-1
福岡合戦の舞台 |
福岡県名の由来の地です。
【備前福岡あれこれ】
赤穂線長船駅から西へ1km。
また岡山市の中心から国道2号線を東へ20km余り、吉井川にかかる備前大橋から東側の堤防を、右手にゴルフ場を眺めながら1kmばかり下ると不思議な町並みが目に入る。
駅もなく街道からもはずれながら密集した人家が200ばかり、その中を真直に走る道路の広さにまず驚かされる。
南北に2本、東西に4本、その間を結ぶ狭い道も基盤の目のように整然としていて都ふうな町をしのばせる。
この集落-福岡の家並みは古い歴史の残照であり、それ故にこそ司馬遼太郎の「播磨灘物語」の冒頭の舞台となる。
『福岡とは山陽道の沿道にあたり、この時代中国筋における第一等の都会であったろう。村のそばに吉井川が流れていて水運がいいだけでなく、まわりに美田が広がり、気候は温暖で物成りがよく、餓えということを知らぬ土地だという。』
物語の中のこの時代とは、室町時代の末である。
山陽道と吉井川の交わるこの一帯は、物資の集散地として大変にぎわっていた。
時代をさらにさかのぼると、鎌倉中期の「一遍聖絵」に「福岡の市」としてその繁栄が描かれている。
布教のため全国を行脚した一遍上人の絵伝(絵巻物にした伝記)は、今も京都の歓喜光寺に国宝として保存されているが、その中の「福岡の市」のようすは、中学校の教科書に載るほど貴重で当時の市の有様を知るよすがになっている。
織物、米、魚、伊部焼(備前焼)の壺を売る商人、市女笠の女、鳥帽子狩衣の武士、市に群がる男女など当時の民衆の生活や、その背景となる風景が美しい詩情をたたえて描き出されている。
また室町初期、武将として、歌人として有名だった九州探題の今川貞世(了俊)は、その道中記「道ゆきぶり」に、『家ども軒を並べて民のかまどにぎはいつつ、まことに名にしおひたり』と記しており福岡の繁栄ぶりがうかがわれる。
往時の福岡の繁栄を現況から想像することはできないが、わずかに「七小路」「七井戸」と語り伝えられたものに、その昔整然と区割された町であったことをしのばせるものがある。
東小路、西小路、市場小路、上小路、下小路、後小路、横小路、その他横町、殿町、茶屋市場などという呼び名がそれである。
殿町というのは武士の居住地であったと思われ、市場小路、茶屋市場は「福岡の市」と関係があると思われる。
農村にしてはあまりに趣のある街作り、白壁や格子窓が残る家並み。
中世の福岡千軒から徳川の幕藩時代を経て今の小集落へ。
その接点はいつであり、どんな背景があったのか。
現在の福岡は昔の大福岡の一部がそのまま残ったものか。
宇喜多氏による岡山城下町作りへの多くの商人の引き抜きや、大洪水による荒廃のあと新たにつくり直されたものなのか。
疑問に答えてくれるものは今は残っていない。
そのあたりは謎につつまれたままである。
(現地パンフレットより)
備前福岡へは、岡山駅からJR赤穂線に乗って行きます。 吉井川を渡る。 最寄駅長船駅下車。 ここからは交通手段が無いのでレンタサイクルを借りるとよい。 駅の北側の踏切を渡って西へ進む。
往時はこの辺りを吉井川が流れていたのではないだろうか。 約10分で福岡の町が見えてきます。 案内図。
福岡城を目指します。
河川敷にある長船カントリークラブゴルフ場。 ゴルフ場の中にある丘が福岡城跡と言われています。 ゴルフ場を見下ろす土手沿いに碑が建っています。 まずは、フロントにて入場の許可を貰いましょう! プレーの邪魔にならないように気をつけて福岡城跡へ。
北から見る。 西から見る。 南側に城址碑。 説明板。 本丸跡へ登る。 本丸跡に鎮座する稲荷神社。 神社の裏を覗く。
丘は粘板岩から出来ている。 とても本丸跡とは思えない小さな丘でした。 ここは、渋染一揆結集の地でもあります。 説明板。 福岡城跡の丘を後にします。 備前大橋から見た吉井川。
左側のこんもりした森が福岡城跡の丘。
右側の小さな山が本城山。
本城山が本丸跡とも言われています。 本城山へ行ってみる。 吉井川の左岸は岡山市。 登城口。 途中、お墓のある小さな平坦地が段々に連なっていました。 頂上の平坦地。
確かにこちらの方が城跡っぽい。 残念ながら、大永年間(1521~1528)の吉井川の大洪水で福岡城と福岡の町が流されてしまったと云う。
どちらが本当の城跡なのかは謎のままです。
河川敷にある長船カントリークラブゴルフ場。 ゴルフ場の中にある丘が福岡城跡と言われています。 ゴルフ場を見下ろす土手沿いに碑が建っています。 まずは、フロントにて入場の許可を貰いましょう! プレーの邪魔にならないように気をつけて福岡城跡へ。
北から見る。 西から見る。 南側に城址碑。 説明板。 本丸跡へ登る。 本丸跡に鎮座する稲荷神社。 神社の裏を覗く。
丘は粘板岩から出来ている。 とても本丸跡とは思えない小さな丘でした。 ここは、渋染一揆結集の地でもあります。 説明板。 福岡城跡の丘を後にします。 備前大橋から見た吉井川。
左側のこんもりした森が福岡城跡の丘。
右側の小さな山が本城山。
本城山が本丸跡とも言われています。 本城山へ行ってみる。 吉井川の左岸は岡山市。 登城口。 途中、お墓のある小さな平坦地が段々に連なっていました。 頂上の平坦地。
確かにこちらの方が城跡っぽい。 残念ながら、大永年間(1521~1528)の吉井川の大洪水で福岡城と福岡の町が流されてしまったと云う。
どちらが本当の城跡なのかは謎のままです。
【福岡合戦】 文明15年(1483)7月、山名政豊と結んだ備前の松田元成が赤松家の守護所である備前福岡城を急襲した。 この際に赤松政秀と浦上則景を福岡城救援に派遣するも、赤松政則自身は叛乱の根を一挙に絶とうと山名氏の本国である但馬へ進軍。 同年12月25日に赤松政則は真弓峠にて山名軍に大敗して、逆に山名氏の播磨侵攻を許してしまった。 これによって福岡城は奪われ、播磨・備前・美作の三ヶ国における赤松家の威信は大きく揺らいだ。 赤松政則は堺へ出奔、重臣の浦上則宗や小寺則職らは、代わりに有馬澄則を新たな君主に擁立すべく将軍足利義政に働き掛けるに至る。 赤松氏領国は大混乱に陥るも、最終的には赤松政則が幕府の援助を受けて復帰、長享2年(1588)には福岡城が奪還され、播磨に侵攻していた山名軍も領国へと引き上げ、足掛け6年に及んだ山名家のとの戦いが終結した。
(おまけ)
僅かに残る福岡の町へ。
まずは郷土館で勉強しようと思ったが閉まっていた
福岡の市跡。
往時は大変賑わったと云う。
街中には七つ井戸があった。
妙興寺へ。
沿革。
備前国主赤松則興の追善供養の為に応永10年(1403)に建立。
赤松則興って誰?
山門。
境内の様子。
御朱印は事前に書いた紙だった。
奥の墓地にある宇喜多能家の墓。
宇喜多能家は備前守護代浦上氏の家臣で、宇喜多直家の父。
周りには阿部家の墓もありました。
説明板。
墓地の奥には、黒田墓所。
黒田官兵衛孝高の祖先が眠る。
説明板。
九州の「福岡」は、黒田氏の由緒の地である備前福岡に因むと云う。
再来年の大河ドラマは「軍師官兵衛」。
少しは賑わいを取り戻しそうですね。