後南朝行宮跡(奈良県吉野郡川上村・上北山村) | 三日月の館

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場所 奈良県吉野郡川上村・上北山村

 

 

長禄の変の舞台


禁闕の変で三種の神器の一部を奪った後南朝の行宮があった所です。
【後南朝】 

延元元年(1336)に後醍醐天皇が吉野に御座を移されてから約60年。 

元中9年(1392)、足利義満の呼びかけに応えて後亀山天皇が京都に遷幸され、南北朝の歴史もようやく幕を下ろしたと思われました。 

しかし「皇位は両朝交互に与えられる」という約束も守られず、南北朝の合体は実質的には南朝の消滅となりました。 

後亀山天皇の皇子、実仁親王は、幕府に抗議し戦いますが、川上村に潜幸され、嘉吉3年(1443)に崩御されます。 

そして、同年ついに「嘉吉の変」に乗じ、小倉害の皇子である天基親王と円満院宮が京都へ進攻して三種の神器のひとつ神璽を奪い、吉野南山に御所を置きました。(禁闕の変) 

一方この変が起こる以前に、天碁親王と円満院宮の弟・尊義王は近江から川上郷に移り住んでおり、尊義王は兄の円満院宮から神璽を譲られ、皇子の尊秀王(一ノ宮、自天王)と忠義王(二ノ宮、河野宮)を連れて、三之公(さんのこ)に御所を構えました。 

しかし、尊義王は南朝の再興を果たすことなく45歳で病死してしまいます。 

その後、自天王は北山郷(奈良県上北山村)に、忠義王は河野谷村(神之谷)にそれぞれ御所を構え、南朝の夢を果たそうとします。 

(川上村HPより抜粋)

 

川上村は宮滝遺跡の先、国道169号線沿いにあります。
大滝ダムの西岸に「後南朝最後の古戦場」と「御首戴石跡」の碑が建っています。

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碑文。
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【南朝自天王の戦跡】

ダム底に沈む集落は、むかし寺尾村塩谷村と呼んでいた。
長禄元年(1457)12月2日南朝の後胤で南帝となるべき自天王の宮を足利幕府の密命を受けた赤松家遺臣らによって上北山村瀧川寺北山御所で襲撃し、宮の御首と神爾を奪って京都に逃げ帰ろうとした敵集団を迎撃せんとこの地に集った川上郷士との間に激しい戦いが行われた古戦場跡です。
水没した塩谷川岸に陰岩、対岸寺尾の国道沿いに腰掛岩があり、この腰掛岩に休息中の敵将中村貞友らを、郷士の中で弓の名人と言われた大西助五郎ら、陰岩から強弓をもって射殺した。
また残敵も郷士らによって討ち取り御首及び神爾を奪還した。
時正に12月5日の夕暮れであった。
郷士たちは奪還した御首級神爾及び遺品を岩の上にお祀りし地に伏して慟哭、南朝の再興を誓いあった。
この史実を長禄の変と呼び延元元年南朝創始の年を去ること122年、後南朝の御血統はここに断絶するにいたった。
郷民協議のうえ宮の無念を偲び毎年2月5日の朝拝の儀が行なわれ今も絶ゆることなく続いている。
長禄の変以来540年ここに碑及び碑文を遺記し後世に永く伝えるものなり。
平成8年6月吉日
川上村朝拝組

 

「後南朝最後の古戦場」の碑。

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「御首戴石跡」の碑。
奪還した自天王の首を載せ拝んだと云う。
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石は元々ダム底に沈んだ集落にあった。
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川上村役場の先、高原トンネル手前の信号を左折しトンネル脇の細い道を登って行くと、高原集落の中に川上陵墓参考地がある。
自天王の弟、忠義王(二ノ宮、河野宮)最期の地との説がある。
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陵墓脇の祠。
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被葬者は特定されていないが、陵墓は宮内庁が管理。
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陵墓下の辻合橋。
由来は不明。
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国道169号線へ戻って南下。
柏木の集落の対岸にある金剛寺へ。

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由緒書。
金剛寺は後南朝の菩提寺という。

本堂。
立派な堂宇だが、誰もいなかった。
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本堂脇に後亀山天皇の玄孫である尊秀王(一ノ宮、自天王)の墓がある。
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陵墓は宮内庁が管理。
「河野宮(自天王弟)墓」となっている???
(陵墓の入口には自天王陵という碑が建っているが、はっきりしていないようだった。)

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もう一つの由緒書。

後南朝由来。 
自天王を祀る自天親王神社。
覆い屋の左側には、牛頭天王神社が鎮座する。
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収蔵庫。
中には国の重要文化財である自天王遺品(縹絲威筋兜・大柚・胴丸金具)等が保存されており、毎年2月5日の「御朝拝の儀」で開扉される。
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さらに金剛寺の南、大迫ダムの先に黒木御所(三之公)や瀧川寺(北山宮行宮)があるのですが…
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あまりの山深さに断念

【長禄の変】 

嘉吉3年(1443)の禁闕の変で、三種の神器の1つ「神璽(八尺瓊勾玉)」は後南朝に持ち去られたままだった。 

嘉吉の乱で取り潰された守護大名赤松氏の再興を願う赤松氏の遺臣達(小寺藤兵衛、石見太郎、丹生屋帯刀、上月満吉ら)はこの点に着目した。 

赤松遺臣らは大和の豪族小川弘光と共に、奥吉野の北山・川上に本拠を置いていた後南朝の行宮を長禄元年12月2日(1457年12月27日)に襲撃、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍である)の兄弟や野長瀬盛高・盛実兄弟、楠木正理らは奥吉野の山中を逃走するが、十津川にて討たれた。 

赤松遺臣らは神璽を一旦持ち去ることに成功するが、後南朝を支持する吉野の民によって神璽を再度奪還され、赤松遺臣らは一旦引き上げた。 

翌年の長禄2年(1458)、赤松遺臣らは小川弘光・越智家栄の協力を得て自天王の母の屋敷を襲い、再度神璽を持ち去った。 

約15年もの間京都から持ち去られていた神璽の奪還成功の功績を認めた室町幕府は赤松氏の再興を許し、赤松政則に家督相続をさせた。

南朝側から見れば悲劇であるが、この事件を契機に赤松氏は再興され、長禄2年9月に赤松政則は加賀北半国の守護に任じられた。
(主役がマイナー過ぎて知られていないが、嘉吉の乱から長禄の変までの赤松氏の話は大河ドラマ並みの話だと思うのですが…)