芦浦観音寺(近江国) | 三日月の館

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登城日 2017年11月23日(木)晴
難易度 ☆
場所   滋賀県草津市芦浦町363-1

 

琵琶湖の湖水奉行だった城郭寺院です。

 

JR草津駅から近江鉄道バスに乗って芦浦バス停下車。

交差点には石碑が建っている。

真っ直ぐ進んで行く。

進んで行くと水路。

ここから寺内かな。

反対側。

森が見えてきました。

ここは堀跡らしい。

南側は安国寺。

観音寺って書いてあるのかな?

説明板。

史跡【芦浦観音寺跡】

                         平成16年9月30日指定

                         文部科学省告示第142号

 

芦浦観音寺は、聖徳太子開基・秦河勝創建の伝承を持つ古刹ですが、現在の寺の歴史は、室町時代前期の応永15年(1408)、歓雅による寺の中興にはじまるとされています。

特に観音寺三傑僧と呼ばれる八世賢珍・九世詮舜・十世朝賢の時代には、芦浦観音寺は、天下人である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のもとで天下統一事業に積極的に関与しており、とりわけ九世詮舜は、秀吉から琵琶湖湖上交通の管理・監督を行う船奉行に任命されています。

以後、芦浦観音寺は、貞享2年(1685)に代官職を罷免されるまで、船奉行として活躍しました。
一方、周囲に堀を巡らし、内部に石垣や土塁を配する現在の寺の様子は、江戸時代前期の作とみられる「芦浦観音寺境内絵図」にも表れており、さらに近年の各種調査によって、この景観は安土桃山時代から江戸時代前期に行われた寺の整備によるものであること、また往時んぼ芦浦観音寺が現在の寺の西側まで広がっていたことなどが明らかとなっています。

以上、芦浦観音寺は、中世末から近世初頭のわが国の歴史を窺う上で重要であり、しかも当時の遺構が良好に遺存していることなどから、かつての境内地等を含めた範囲を史跡芦浦観音寺に指定し、長く保存を図っていこうとするのもです。

 

草津市教育委員会

 

芦浦観音寺境内絵図拡大。

史跡芦浦観音寺跡指定範囲図。

進んで行く。

もう一つの説明板。

虎口。

内堀。

反対側。

本日は特別拝観日。

石垣には白鳳時代の転用石も。

中へ入る。

元は安国寺にあった宝篋印塔。

観音寺椿。

納豆蔵。

本堂と書院。

書院の奥へ。

土塁と石垣。

土塁に登る。

内堀を見下ろす。

振り向く。

境内を見渡す。

土塁上を進む。

永原御殿から移築されたと云う書院。

国の重要文化財。

さらに奥へ進む。

この辺りで土塁が無くなる。

竹藪の中に土塁と堀。

阿弥陀堂。

国の重要文化財。

説明。

名称不明のお堂。

こっくりさん。

こちらも名称不明の建物。

書院へ。

中の様子。

書院から土塁を見る。

近江の正倉院と言われている。

観音寺の船印について。

肥前名護屋城諸侯陣跡之図。

参陣していた。

大津に船奉行所があった。

京都の五条大橋の擬宝珠に名が刻まれている。

江戸に屋敷もあった。

もう一度境内を見渡す。

御朱印を貰う。

境内を出る。

内堀を境外から見る。

町内案内図。

城域が浮かび上がってくるようですね。

芦浦観音寺を後にする。

最後に御朱印。

一年に2日しか公開されない貴重な芦浦観音寺でした。

 

(おまけ)

 

書院にあった史跡を廻ってみる。

京都の五条大橋へ。

豊臣秀吉によって架けられた五条大橋は何度か流失し架け替えられている。

擬宝珠に説明が記銘されている。

五条大橋は、五条通の戦時建物疎開跡に幅50mの道路となり、昭和27年国道に指定されてから、京都市交通動脈の様相を帯びてきたので、ここに現代技術と美の粋を集めた長さ67m幅35mの鋼桁橋として架設された。

影を鴨水に染め東山の翠に配した擬宝珠付石造高欄は、まさに王朝と現代を調和した文化観光都市の一つの象徴といえよう、疎水橋もこれにならい擬宝珠二筒を追補した

 

昭和34年3月

京都市長 

高山義三

 

北側の擬宝珠に芦浦観音寺の銘記。

南側にも。

五条大橋を後にする。

京阪電車に乗って浜大津駅へ。

こんな大きな電車が車道を走ってるなんて…

浜大津駅前。

ここは大津城本丸跡。

江若鉄道の浜大津駅跡に建つ明日都浜大津。

廃線跡を進む。

しばらく進むと廃線跡が遊歩道になっています。

進むと疎水に突き当たります。

疎水を渡る橋。

ここは大津城の外堀跡でもあります。

鉄道が走っていた橋が残存。

橋台。

渡ると観音寺西交差点。

この辺りに芦浦観音寺の船奉行所があった。

廃線跡は皇子山陸上競技場の前で大きな道に吸収される。

説明板。

【大津絵のみち】

 

長等地区は、平安時代以来、園城寺(三井寺)の領地として、また琵琶湖の要港・大津の一角として発展してきました。

ことに、安土桃山時代から江戸時代には、港町として繁栄しmした。

船頭町(長等2~3丁目)には湖上運送の特権をもつ大津百艘船の船頭が集住し、また尾花町には船大工が、さらに観音寺には船奉行観音寺の出屋敷があるなど、長等地区には大津港の機能が集中していました。

一方、大津は宿場町としてもにぎわいました。

大津絵は、東海道そして長等地区を走る西近江路を行く旅人の土産として、京都に近い大谷、追分の街道筋で売られ、全国に大津の名を高めたものです。

 

町内にある蛭子神社へ。

蛭子神社由来。

ここに町名の説明がありました。

【観音寺】

 

安土桃山時代より江戸時代前期にかけて、琵琶湖の船を統括した船奉行観音寺の屋敷が町内にあったことから起こった町名です。

観音寺屋敷は、町の西南端にあり、堀によって琵琶湖と結ばれ、船はすべてここで登録されることになっていました。

 

屋敷はこの辺りにあったのかな?

最後に東京の御茶ノ水へワープ!!

延宝年間の芦浦観音寺江戸屋敷。

元禄元年。

元禄の中頃には飯高氏の屋敷に変ってしまった。

淡路町交差点。

淡路町一丁目説明板。

この安政3年(1856)の地図では、「□御書院番伊東真四郎六百石」と書かれている所が芦浦観音寺の屋敷跡です。

観音坂へ。

坂の麓。

観音坂の説明碑。

【観音坂】

 

元禄期(1688~1704)まで、この坂の上に芦浦観音寺(茅浦観音と記した資料もあります)が建っていたことから観音坂と名付けられました。

その後、観音堂があった場所は旗本屋敷となりました。

明治時代には、この地域には実業家や政治家などの邸宅がありました。

 

坂の途中に聖観世音堂。

坂を登った所。

ホテル龍名館本館が建つ。

ここが芦浦観音寺屋敷跡と思われる。

槐の木。

説明板。

また坂を振り返る。

圓福寺以上に旅してしまった。