106 脇本城 その1(羽後国) | 三日月の館

三日月の館

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登城日 2018年 4月30日(月)晴
難易度 ☆
場所   秋田県男鹿市脇本脇本字七沢他

 

安東三城の一つです。

 

秋田駅から男鹿線に乗って行きます。

脇本駅下車。

脇本駅は小さな無人駅。

スマホのマップを頼りに駅前の道を進む。

脇本クリニックの手前を左折。

桜。

昨日、浪岡城の桜が今年の見納めだと諦めていましたが、見れて幸せ。

遠くの南西にある山が脇本城。

細い道を進んで行く。

脇本第一小学校の北側を西へ。

校庭の西側に田谷沢道と大空堀へ至る登城口がある。

帰りにここから帰れたらいいなぁ~

と思い、南下。

菅江真澄の道。

東北で良く見かける。

三河出身と云う。

五郎友季の竹について。

(説明板は城下町にあります。)

さらに南下。

稲荷神社の所に「茶の水」。

萬鏡寺へ。

参道。

子安地蔵尊堂。

本堂。

二股の樅の木?

さらに南下。

大龍寺跡を望む。

本明禅寺入り口。

脇本城跡の看板。

登城口に到着。

説明板。

【史跡 脇本城跡】

指定/平成16年9月30日

指定面積/1287382.77㎡

 

史跡脇本城跡は、日本海を見下ろすようにそびえる標高100m程の広大な山城です。

室町~戦国時代に秋田県中央~北部を支配した安東氏の城である。

檜山城(能代市)、湊城(秋田市土崎)の間に位置する脇本城は、天正5年(1577)に安東愛季が大規模に改修したと考えられ、曲輪や土塁、井戸跡等、戦国時代に整備された山城の遺構が観察できます。

発掘調査では、当時の掘立柱建物跡、塀、柵跡等の遺構や、陶磁器、木製品、金属製品等の武具や生活用品等、貴重な遺物も多数出土しています。

南側の内館地区からは、西の真山・本山、東の八郎潟(現大潟村)や森吉山、南には日本海が開け、山形県との県境、鳥海山まで見渡すことができ、海沿いを拠点として勢力をのばした安東氏がこの地を選んだことを実感する眺めを楽しむことができます。

 

裏面にも説明板。

左右に登城道。

いつものように左の階段を選択。

脇にも説明板。

登って行く。

左の道をゆっくりと登っていけるが、そのまま参道を直登。

菅原神社が見えてきた。

菅原神社。

安東氏の氏神として本丸の南側に祀られていた。

安東氏が常陸へ国替えとなった際、遷座せずそのまま残っていたが、承応2年の地震で山が崩れ、ここに遷座。

秋田市方面を望む。

境内の南側を進む。

天神様の細葉の椿。

椿の花。

天下道を西へゆるやかに登って行く。

天下道説明板。

脇本城跡案内所。

ここで続日本100名城スタンプ7城目をGet!

24時間、365日入れる案内所。

中もきれいに整頓されている。

素晴らしい!

模型もあります。

パンフレットを片手にいざ出陣!

いつの間にか天下道から逸れてしまった登城道を登って行く。

どこで逸れちゃったんだろう?

登った所に内館跡。

説明板。

【脇本城の概要】

■脇本城について

脇本城は、古くから男鹿半島を掌握する要害の地でありましたが、元亀元年(1570)に秋田郡、檜山郡、豊島郡を統一しながら比内郡へも勢力を及ぼし、蝦夷島(北海道)管轄にも携わったが安東愛季が、天正年間(1573~1591)に織田信長らと政治折衝を続ける中で、再整備した城であります。

■脇本城跡の特徴について

①戦国時代末期の巨大山城であり、東北最大級の規模です。

城跡は、海抜百m前後の丘陵地を利用して築城されており、その規模は東西約1.8km、南北約2.0km。

全体の面積が約150haと考えられており、能代市の檜山城、福島県会津本郷町の向羽黒山城など、東北地方を代表する山城と共通した性格をもち、これらの城と比較しても勝るとも劣らない拡がりがあります。

②色々な遺構を数多く残しており築城技術の博物館です。

城には自然地形に即して堀切や空堀・土塁・により迷路を造ったり、通路をさえぎるような工夫をしております。

特に西側急斜面の30本以上に及ぶ大規模な竪堀・竪土塁群は壮大です。

③城域に複数の中心部分が存在しております。

大きくとらえれば、生鼻崎の内館を中心とした曲輪群、馬乗り場(古館)、本明寺山を中心とした曲輪群、兜ヶ崎を中心とした曲輪群、打ヶ崎を中心とした曲輪群、田谷沢集落裏の曲輪群、乍木の曲輪群など複数の曲輪群の集合体として成り立っております。

その中で馬乗り場(古館)が核となっていた可能性が高いとされております。 

④城内の中を主要道路の「天下道」が通っています。

船越方面から脇本集落を通り、城内を通過し船川、北浦方面に通じる主要道路の「天下道」が通っています。

⑤城の北側を通っている「田谷沢道」は、築城時に整備された道路です。

田谷沢集落から脇本へ通ずる「田谷沢道」は、切通しになっており、要所要所に折りや行き止まり状の遺構を設けております。

⑥脇本本郷集落は、脇本城の城下町です。

本郷集落は、中世の城下町の景観を残しており、水堀、木戸を設け、家臣屋敷と町屋地区がありました。

また城下町特有のカギ型通路が今でも残っております。

■安東愛季と脇本城に関する年表

天文8年(1539)  愛季、檜山城主舜季と湊城主尭季の娘との間に出生したといわれる。

元亀元年(1570) 湊安東家内紛。愛季、湊安東家を配下におく。

天正3年(1575)  愛季、織田信長に鷹を贈る。

天正5年(1577)  愛季、従五位下に叙位。愛季嫡子業季に湊・檜山の両城を譲り、脇本城を居城とする。

天正8年(1580)  愛季、従五位上に叙位のうえ、侍従に任命される。

天正10年(1582) 実季が湊城主となる。信長、本能寺で殺害される。

天正15年(1587) 9月、愛季が淀川の陣中にて病死し、遺骸を脇本城下の法蔵寺に葬るという。

天正17年(1589) 豊島城主湊通季が実季を攻撃する。実季は脇本城を考えるが結局檜山城に逃れ籠城し勝利する。

天正18年(1590) 豊臣秀吉が奥州仕置きを指示。この時脇本城も廃城を申し渡されたと推定されている。

 

男鹿市教育委員会

 

史跡範囲図。

内館・生鼻崎地区の遺構図。

内館復元想像図。

まずは南側の武家屋敷群へ行ってみます。

下の曲輪を振り返る。

登って行く。

上の曲輪は西側に土塁がある。

西側土塁説明板。

土塁上から見る。

西を見る。

館跡群跡の碑。

復元想像図。

南端から男山を見る。

地震の影響で、生鼻崎の一部の曲輪は海へ崩落してしまったと云う。

南端から振り返る。

北へ戻る。

登って来た道を見下ろす。

見失った天下道へ。

天下道を菅原神社方面へ進む。

ここで天下道と別れ、左へ登って行く。

主郭部。

東端から主郭部を見る。

主郭復元想像図。

主郭北側の土塁。

主郭西側の大土塁。

大土塁から主郭を見下ろす。

大土塁西端から武家屋敷群を見る。

大土塁で仕切られた内館の西側(主殿があったところ)を見下ろす。

大土塁の東端。

館神堂。

大土塁の西側に井戸跡。

主殿があった大土塁西側の曲輪。

西側から大土塁を見る。

西側の土塁と空堀。

虎口。

さらに西側の曲輪。

主殿のあった曲輪を振り返る。

天下道を見下ろす。

上段の曲輪と土塁。

土塁を登って行く。

振り返る。

土塁越しに最上段の曲輪を見る。

最上段の曲輪。

内館を振り返る。

井戸跡を見下ろす。

内館を後にする。

馬乗り場地区へ向かいます。

 

つづく