名護屋城は安土桃山時代、佐賀県の北端・東松浦半島に築かれた陣城です。
<名護屋城跡案内図>
わたしは「大陸進出を目論んだ豊臣秀吉がその拠点として築いた城」程度にしか認識していなかったのですが、その広さ170,000平方メートル、
<肥前名護屋城図屏風(茶室と能舞台まであるあたりさすが秀吉!)>
大阪城に次ぐ規模を誇る城の周囲には全国から参集した大名の陣屋が150以上も建てられ、実に人口20万人を超える城下町だったという―
陣屋の主の名を見れば、
<名護屋城を取り巻く陣屋>
徳川家康、前田利家、福島正則、加藤清正、細川忠興・・・と錚々たる顔ぶれ!
国内にこれほど名だたる武将が一堂に会した城、陣跡は他にはなく、現在、国の特別史跡に指定されているとか。
すごいな、名護屋城!こんな夢のようなお城が佐賀にあったとは知らなかったよ!
<国特別史跡「名護屋城跡」>
見学は無料ですが、観光案内所で歴史遺産維持協力金100円(任意)を払うとパンフレットがもらえます。いただいたパンフレットをもとに、大手口から本丸まで歩いてみました。
<大手口>
大手口を進み右手にあるのが東出丸。
<東出丸に残る櫓台>
「千人枡」とも呼ばれる東に張り出した長方形の曲輪で、大手口・三ノ丸警護のための侍詰所があったと推察されています。
<在りし日の東出丸>
東出丸から北に進んで三ノ丸。
<三ノ丸>
本丸を守る重要な区域で、西にある馬場から二ノ丸にも通じているらしいのですが、雨なので散策は断念しました。
三ノ丸から石段を登って本丸へ。
<本丸>
本丸からは名護屋湾と呼子大橋が望めるのですが、
<本丸から名護屋湾を望む>
雨で見え~ず・・・
晴れていれば玄界灘の向こうに壱岐・対馬まで見渡せるとか。つくづく残念・・・
展望を諦め、天守台に向かいます。
<天守台>
現在は礎石が残るのみですが、当時は5層7階、高さ25~30mの天守がそびえていたとか。
<肥前名護屋城図屏風に描かれる天守>
辺りからは金箔の瓦も出土しているそうで、秀吉らしい豪壮な建物だったのでしょうね。
<天守台から見た遊撃丸(明国から来日した沈維敬(遊撃将軍)の宿舎となった)>
それにしても、大手口から本丸まで最短距離を歩いたのですがかなり広い!これほどの城をわずか5ヶ月で完成させたというのですから、いかに秀吉が剛腕だったか伺えますね。^^;
実際築城は九州の諸大名を中心に割普請(分担作業)で行われたため、場所によって石垣の積み方が違うのだとか。今度晴れた日に再訪し、その辺りじっくり見学してみたいです。(リベンジする気満々)
これほどの規模を誇った名護屋城ですが秀吉の死後城は解体。(一部遺材は寺沢広高が唐津城の築城に使ったらしい) 江戸時代には一揆に利用されることを恐れ(※)、石垣も破却されたとか―
※一国一城令を受けてとも、破壊することで幕府が朝鮮と関係を改善する意思表示をしたとの見方もあるらしい
<つわものどもが夢の跡・・・>
城跡を見学した後、敷地内にある「名護屋城博物館」を訪ねました。
<佐賀県立名護屋城博物館>
驚いたことに、こちらも入館料無料です。(太っ腹!)
<大きな窓が印象的なエントランス>
中には名護屋城や陣跡、
<出土した軒丸瓦>
<名護屋城ジオラマ>
および文禄・慶長の役(1592年~1598年)についての資料が
<安宅船(あたけぶね:当時の日本水軍の最強軍船)の模型>
朝鮮半島との交流史を主に展示されています。
秀吉の朝鮮出兵は侵略戦争ですから、展示内容は朝鮮半島に対しかなり配慮されたものとなっています。(唐津焼も有田焼も秀吉が朝鮮半島から連れて来た陶工達が始まりと知り、心中ちょっと複雑) 歴史を通して、本当の意味での良好な関係が築ければいいなと思います。
できればもうちょっと唐津を楽しみたかったのですが、雨が激しくなってきたので「マリンセンターおさかな村」でお昼をいただいて帰ることに。
<マリンセンターおさかな村>
いただいたのはもちろん、大漁亭の「おさかな村丼」♪
<大漁亭の「おさかな村丼」>
<お刺身アップ>
この日も安定の旨さでした。(提供されるまで時間はかかったけど)
歴史にグルメに「ゾンビランドサガ」(笑)。
初めての唐津お泊りは大大大満足でした。 (晴れていてばなおよかった)
<ディスカバー佐賀・唐津の旅 完>
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。*^^*
2日目(8月11日)旅程
ホテル&リゾーツ佐賀唐津8:55発―唐津市ふるさと会館アルピノ9:00着~9:35発―名護屋城跡10:10着~11:55発―マリンセンターおさかな村(昼食)12:45着~14:25発―相知長部田IC14:55発―東脊振IC15:30着