「大長今」の人生論を書いたら、この話の冒頭を思い出した。
まずは読んでもらおう。
崖から落ちた「長今」の父を助けた老師のセリフ。

哀れな人生やの。
お前の運命は3人の女に握られておる。
一人目の女は、お前が殺すが、死なない。
二人目の女は、お前が助けるがお前により死ぬ。
三人目の女は、お前を死なせるが多くの命を救うであろう。

一人目はすでに出会ってしまった。
二人目の女を出会わなければ、三人目の女と出会わずに済む

といい、「偏に(文字化けにより)」、「」「」を書いた三枚の紙を残して、去る。

偏に」は、今会った女、つまり自分が死刑を執行した王妃(歴史に名を残すので死なず)で、男は、川に溺れかけのた女()を助けて結婚、やがて女の子()をもうけるが、その子によって死ぬことになる。その子(長今)は、多くの命を救うべく(のち大長今の称号を得る)、只今話が進行中だ。
ちなみに、「長今」は宮殿の実録に名前が7回出てくるという。学者の間でも7回みな同じ人物だの違うだのと、議論が繰り広げられ、話の展開についても、良し悪し云々と、番組のHPは賑やかだった。
しかし、こんな「謎」を仕掛けで、視聴者をくいつかせるとは、伏線の張り方がうまい。

それは韓国人は、こんな謎かけが大好きだからでもある。
歴史人物の伝記にも、身ごもった時に母が見る「胎夢」から、その家に代々伝わる伝説など、一種、託宣のようなこの手の話がよくのる。偉大であればあるほど、それらしい話が伝わる。
韓国ではいまでも、子供ができたというと必ず、
「胎夢」は見れたかと聞く。
不確実なこの世。人々はこんなささやかな楽しみ方で、
我が子の未来を占いたいのかも。