第十三章(城ヶ島の雨)。 | プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

城ヶ島


 店内は目立っていた空席もほぼ満員となり、私と父の周りにも仕事帰りの若い女性や、背広姿のサラリーマンたちで混雑し始めていた。

 「藤枝に帰ったらどうするの?ラーメン屋はもう出来ないでしょ?」

 「ああ、そうだな、まあ、少しのんびりするか…」

 「勇次とは連絡取ってるんでしょ?」

 「ああ、迎えに行くと手紙が来たが、断った」

 「なんでまた断ったの?悪いのは勇次でしょ」

 私は父の返答が不満でならなかったので、少し強い口調で言った。

 「まあいいさ、もう終わった事だ…」

 父は自分で納得しているようだったので、これ以上その話題に触れるのは止めておいた。

 「お腹空かない?」

 「そうだな、何か食べるか」

 「店を変えて他に行こうよ…」

 「ああ、そうするか」

 二人分の代金を済ませ、地上に出ると辺はすっかり暗くなっていた。時計を見ると7時半を少し回っている。父と一時間以上も話し込む事など今まで無かったので、私はある種の充足感を密かに抱いていた。

 「シャリン、シャリン、シャリン」私の直ぐ後ろを付いて来る足音がどこか懐かしい。父の履く雪駄は昔から蛇革の鼻緒と決まっていた。その雪駄が当時、どれほど高級な履物だったか幼い私には知る由もなかったが、その雪駄を履いてお使いへと出掛けたものである。子どもの小さな足に雪駄は似合わないけれども、父の温もりが伝わって来るような気がして、私はそれを履くのが大好きだった。

 松坂屋の直ぐ下を通り、丸井静岡店のある方向へと歩を進めて行った。

 「藤枝まではどうやって帰るの?」

 「うーん、まだ決めてないがどうするかな…」

 「電車だと藤枝駅でバスに乗り換えだよ」

 「ああ、バスだとどうなんだ?」

 「新静岡センターから藤枝駅行きが出てるから、乗り換えなしで直通だね」

 「じゃあ、バスで帰るか」

 「それならセンターの近くのお店がいいね、何食べる?」

 「そうだな…、蕎麦でも食べるか」

 丸井デパートの角を曲がり、新静岡センター方面へ向かう。暫く歩くと、薄暗い路地の片隅に「戸隠そば」と墨文字で書かれてある看板を見つけた。「ここでいいよね」と言いつつ、紺色の暖簾をくぐり中へと入った。

 食事の時間帯にもかかわらず店内は意外と空いており、和室風に施された室内は日本そば屋特有の静けさが漂っていた。カウンター席と奥が畳の座敷となっていたが、出入り口に近いテーブル席に座った。

 「いらっしゃいませ、ご注文が決まりましたらお知らせ下さい」

 品の良さそうな中年の女性が、おしぼりとお茶を置いて行く。

 「うーん、僕はたぬき蕎麦、父ちゃんは?」

 「ざる蕎麦にするかな」

 私は蕎麦を見ると、どうしても忘れる事の出来ない記憶がよみがえって来る。藤枝の実家では、父と祖母の三人で暮らしていた時期があり、祖母が亡くなる9歳頃までは祖母が親代わりでもあった。

 伯父の亨は、東京の(陸軍)中野学校を卒業した後、特に決まった仕事に就く訳でもなく、実家の3軒隣にある「柊屋」と言う蕎麦屋で暫くの間手伝いをしていた。その蕎麦屋には伯父の昔からの友人が店を継いで切り盛りしており、町内では「柊屋」の「支那そば」が絶品と評判で人気が高く、東京から噂を聞きつけて食べに来る客までいた。

 実家には父が居た事と、父の不良仲間が頻繁に出入りしていたため、伯父は実家に寄り付こうともせず、自分でアパートを借りて住んでいた。父が家を長く留守にしている時などは、祖母と私は二人で寄り添うように慎ましい暮らしをしていた。

 働かない父の代わりに祖母が仕出し弁当を作っていたが、その受注先は「藤枝警察署」であった。留置場に拘留されている犯罪者が食べる弁当で、漆塗りの高級そうな四角い器に採れたての食材を幾つも並べ、大きな釜で炊いた真っ白なご飯の上に、ごま塩や自家製の梅干を添える。そして鮮やかな緑色の植物ハラン(これも自家製)にギザギザの切れ目を入れ、弁当に添えて完成させる。

 それを現在の弁当に例えるならば、高級幕の内弁当がぴったり当てはまる。祖母の作る高級弁当を眺めながら「一体誰が食べるんだろう…」と最初は疑問に思っていた。自分が食べたいと思っても一切口には出来ず、小さな胃袋を満たしてくれたのは、コロッケや鰹節くらいのものだった。

 夜9時になると、近くの岡出山公園から「ねんねんころりよおころりよ~」のオルゴールが流れて来る。「さあ、良い子の寝る時間ですよ…」と母親の様に優しく語り掛けて来るその音色が子守唄替わりになって寝入ってしまう子もいたが、私の場合は少し違った。

 私を寝し付けるために祖母が歌う子守唄は、「城ヶ島の雨」だった。

 ――雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる
   雨は眞珠か 夜明の霧か それともわたしの忍び泣き――

 北原白秋作詞/梁田貞作曲。大正9年に奥田良三が歌い(レコード化)大ヒットした楽曲で、日本歌謡の先駆けとなった。おそらく祖母が若かりし頃にこの歌を聴いて、お気に入りの一曲としたのであろう。私の耳元で囁くように歌う祖母の「城ヶ島の雨」が心地よく、いつしか私は夢の淵へと吸い込まれて行くのであった。