第11章  手 錠 | プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

手錠

 
 注文したアメリカンが届き、テーブルに二つ並べられた。それに早速口を付ける父。カップを持つ手が小刻みに震えている。駅前で呑んだ日本酒の効果は既に切れているようだった。父の横に置いてある黒いバッグに眼をやると、とっての所に黄色い小さな札がある事に気付いた。その札には「
Air Line」と白く印刷されている文字があった。私は疑問に思い訊いてみた。

 「飛行機で帰って来たの?」

 「網走からの帰りだ」

 その言葉に私は耳を疑った。府中刑務所からの帰りだと知っていたので、父が何故そんな嘘を言うのか不思議であったが、妙にプライドの高い父は服役する刑務所にまで拘っていたのかも知れない。

 「高倉建じゃあるまいし、任侠映画の見過ぎなんだよ…」と言ってやりたかったが、口には出さず黙っていた。

 「ラーメン屋はどうなったの?うまく行ってたんじゃないの?」

 「いってたよ、最初はな、途中で板前が止めちまって…」

 コーヒーを啜りながら息子の質問に答える父の顔が少し厳しくなった。

 「新聞に載ってたの見たよ、人相が悪すぎたけど…」

 「なんだ、そうか…じゃあ知ってたんだな…」

 「うん、見た時は驚いたけどね…、どうせまた父ちゃんのせいじゃないんでしょ?」

 「まあな…、仕方なかったんだ…」

 父のお人好しは昔から有名で、それを知っている男たちが、父を何度も利用して来た過去があった。最初の服役は私が3歳の頃で、静岡刑務所だったと記憶しているが、その時の窃盗罪を父が仲間を庇うために罪を被ったか、それとも冤罪だったのか定かではなかったにしろ、無実の罪で服役を繰り返す父の本当の姿を知っている者は限られていた。

 信夫の前で勇次が涙を流しながら土下座していた。人の良い父を言葉巧みに利用する連中は多かったが、義理堅い勇次は父を裏切るような行為をする男ではなかった。

 「勇次…、いいから顔を上げろ、お前には腹の大きな嫁さんがいる」

 勇次を庇うように信夫が声を掛ける。俯いたまま顔を上げない勇次にしてみれば、父の顔をまともに見られる状態ではなかったのだろう。信夫の人情の深さに涙さえ浮かべて頭を下げる勇次の姿を一体誰が想像出来ただろうか。やり過ぎてしまった事への反省の念もあったのだろう。

 「仕事を手伝えないなら、金を出せ!」と金品を要求したのはまずかった。本心ではなかったにしろ、勢いに任せて口走ってしまった事への代償は大きかった。おそらくその場に信夫が居たとすれば、事は丸く収まっていたかも知れない。信夫の留守中に起こってしまった事だったので、気の短い勇次が勝手に暴走したのである。

 寺下勇次の実家は長楽寺の門前の直ぐ近くにあり、美容院を営んでいた。勇次の嫁である「美奈子」がその店を手伝っており、腕の良い美容師として人気があった。

 美奈子が懇願するように信夫に言った。

 「信夫さん、私、心配で心配で、夜もろくに眠れないんです。あの人、いつかとんでもない事をやらかすんじゃないかって…」

 勇次とは嫁の美奈子よりも付き合いが長かったので、時折、美奈子の相談相手にもなっていた。

 「美奈ちゃん、勇次の性格はあんたよりずっと分かっているつもりだ。美奈ちゃんを不幸にするような真似はさせないから安心しな…」

 肝心な自分の息子の事はほったらかしにして、よその家の事になると親身になって世話をする父…。絶えず不安を抱きながら眠る息子の事は二の次だったのである。

 「勇次、お前を前科者にする訳にはいかん、産まれて来る子の事をよく考えろ…」

 「兄貴、それとこれとは話しが別ですよ…」

 「今度の件は俺にも責任の一端はある。山崎を見つけたのは俺だしな」

 「まさかあいつがポリ公に訴えて出るとは思わなかったんで…」

 「まあいいさ、俺はもう務所暮らしは慣れっこだ。この先また前科が増えた所で気にもならん。勲章がまた一つ増えるってことさ…」

 信夫は笑いながら勇次に言った。信夫の両腕に食い込む銀色の手錠が鈍い光を放っている。二人の刑事に連行されて車に乗り込む信夫が言う。

 「美奈ちゃんを泣かせるんじゃないぞ…」

 信夫を乗せた車が遠ざかって行くのを、勇次は見送りながら頭を下げるのだった。
(続く・・・)