母の命日を迎えて(小説「届かなかった僕の歌 幼少篇」より抜粋)。 | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


母  厳しい残暑が続く9月の初めだった。福島県のある町に20代後半の若い女性が住んでいた。このさびれた温泉街にたどり着いたのは6年前。

 ある理由で生まれ故郷藤枝を飛び出したのは22歳の時だった。自分の判断が間違っていたとは思いたくない、荒れた生活に耐えられなくて幼い一人息子を残し、伯母を頼ってこの町に来たのだが、この6年間私の心を癒すものに出会う事は出来なかった。

 常に付いて回る耳の病気は、日増しに悪化して行き最近に至っては激しい頭痛を伴い私を苦しめ始めた。
 耳の治療のため、年に何回か郷里の藤枝に帰っていたが、その度に母ちゃんから「俊樹に一目だけでも会ってやったら」と言われ続けて来たけれど、どうしてもそれだけは出来なかった。
 もし息子の姿を見てしまったら私の決心は揺らぎ、元に戻れなくなってしまうのが目に見えていたので、母ちゃんには悪いけど「俊樹の事よろしく」と言って藤枝を後にして来た。

 耳鼻科の主治医三島先生には「次回外来の時、手術の日程を決めましょう」と言われたが、この半年間私は疲れ果てていた・・・。
 小さな温泉旅館の女中として働いて来たけれど、頭痛もひどくなり夜もろくに眠れない日々が続いた。精神的にも追い詰められ、将来にも希望を持てず、絶望感に苛まされる毎日。死の誘惑につい目がくらみ手首を切ってみたりもしたが、そう簡単に死ねるものではなかった。
 私の変化に気づいたのか、時々伯母が心配して相談にのってくれる事もあったけれど、解決の糸口は見つからない。耳の病気は脳にまで達していて、手術したからと言って完治する約束はなかった。もっと早くに病院にかかっていれば、きっとここまでひどくはならなかったと思う。でも今更もう遅い。
 昨夜も痛みのせいで眠れず、結局朝を迎えてしまった。薄暗い部屋の片隅に膝を抱えてうずくまり、青白い表情から生気は消え失せ、思い詰めたようにその眼はある一点を見詰めていた。
 その視線の先にある物は、丸いテーブルの上に乗っている小さな薬壜だった。死にたいわけではない、この辛さから抜け出したい、ただそれだけだった。我慢の限界だったかもしれない。辛さを耐え抜く気力がもう今の私には残っていなかった。

 一体どの位時間が経過しただろう。気が付くと私は薬壜を手にしていた。陽は高く上り、昨夜から付けっぱなしの扇風機がカタカタと音を立て回っている。生暖かい風が乱れた黒髪に当たり、額から流れ落ちる汗と重なって弾けた。それは死神が微笑んだ一瞬の出来事だった。
 大量の薬を口に放り込み、蛇口へと向かい水と一緒に喉の奥に流し込んだ。喉から食道、食道から胃へと流れ込んでいくそれらの一粒一粒が絶望の淵に立つ私を解放してくれることを願って横になった。
 薄れていく意識の中であの歌だけが木霊していた。
――どらの響きもやるせなく消えて 泣いて未練をヨー告げるのに かわいいお前にゃ何時また逢える 無事でいるならせめての便り 海のカモメに託してお呉れ 俺は待ってるぜ――
 私の背中に刻み込まれた歌。息子が毎朝歌ってくれた。私は忘れていない、今でもこの歌を思い出すたび3歳だった幼いお前の姿が浮かんでくる。
 母親失格の私をお前は許してくれますか。駄目なお母さんだったよね。お前を連れていく勇気もなくて、黙って出て行ってしまったけれど、生きていれば逢える日も来るかと思っていた。自分勝手な母さんでした。お前は生まれた時からとっても丈夫で、3歳になるまで風邪一つ引かない子だった。私がいなくとも立派に成長してくれている事でしょう。ごめんね、俊樹。お前の歌に応えられなくて。

 昭和39年9月8日、母雪子は自ら命を絶った。28歳という若さで人生に終止符を打ってしまった。この時、私は母の死を全く知らなかった。父は服役中に刑務所の中で母の死を知ったらしい。夕食が終わりテレビを見ている私を良一爺ちゃんが呼んだ。