市民が見つける金沢再発見

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2018-10-10 14:05:40

人馬同居!?のシルクスリーン工房

テーマ:今昔

【金沢市北袋町】

湯涌温泉近く北袋町に、近郷の明治・大正期の貴重な建物を保存活用するため、金沢市が整備し里山の文化拠点「金沢湯涌創作の森」があります。5つの登録有形文化財を含む古民家を改装し、専門設備が完備した銅版画、リトグラフ、木版画の版画制作工房や草木染、藍染、織の染織工房シルクスクリーン工房と交流研修施設、宿泊棟、ギャラリーがあり、誰もが使える自由な創作活動作品発表の場となっています。

 

 

(金沢湯涌創作の森)

 

金沢湯涌創作の森の施設は、昭和49年(1974)当時、湯涌温泉ホテル白雲楼の敷地に有った付属施設「江戸村」の姉妹施設として北袋町の里山に「檀風苑加賀記念館」としてオープンします。近郷から移築した建物には、金箔・象嵌・木地・和紙の制作用具など、重要有形民族文化財45075を含む1万点余りが収集されていました。しかし、ホテル白雲楼が平成9年(1997)の倒産に伴い9月「檀風苑加賀記念館」「江戸村」が閉園になり、平成10年度(1998)金沢市が「檀風苑加賀記念館」「江戸村」を取得。「檀風苑加賀記念館」は平成15年(200310月、里山の文化拠点「金沢湯涌創作の森」として再オープンしました。)

 

参考ブログ

金沢湯涌創作の森

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwj_rdmnrvjdAhUKdt4KHQAVAKMQFjAAegQIBRAD&url=http%3A%2F%2Fwww.sousaku-mori.gr.jp%2F&usg=AOvVaw3aLjthDBIQeOfsxrcJNU-X

 

 

私と「金沢湯涌創作の森」の関わりは、再オープンの翌々年だったか、今、金沢21世紀美術館の副館長黒沢伸氏が「金沢湯涌創作の森」に転勤され、金沢21世紀美術館でお世話になったよしみで、催事や小学生のアートフル林間学校のボランティアとして参加させて戴いたのが始めでした。以来10数年、当初は若かったので小学生のアートフル林間学校、肝試し、打ち上げでは泊り掛けも厭わずやってまいりましたが、数年前から体力の衰えもあり、付いて行けなくなった矢先、昨年、病気で入院というアクシデントでボランティアも行くのも止めてしました。

 

(アートフル林間学校)

 

先日、「加賀能登の家」を見ていて「人馬同居の家 宮下家」の記事があるのに気付き、何回も本を見ていたのに、何10回も訪れているのに、今まで、そこが同じところだということに気付かなかったのが、はがゆく思いながら、ブログを書こうと当時の写真を探しますが、見つからず2年半ぶりに出かけました。

 

(今、シルクスクリーン工房)

(昭和50年当時の馬屋付きの住居)

(今の馬屋外と内)

 

車を走らせながら、10数年間のいろいろなことが思い出されます。何回目かの

アートフル林間学校で子ども達と裏山に登ると息が上がり、モタモタしていると子ども達が何回も迎えに来て無理をして頂上に登ったり、球技をすると足の衰えに気付かされ、暫くして動脈硬化と狭心症と診断され、冬場に入院し直ると翌年には、多少無理と知りながらもアートフル林間学校に復帰していました。

 

(アートフル林間学校)

 

また、子ども達と川に行き作ったボートのレースや子ども達の中には泳ぐ子も、また、肝試し、案山子づくり、消しゴム版画やシルクスクリーンで自分だけのTシャツづくりなど、それから、夕食のバーベキュー、その後のアイスクリームづくりなど、今、思うと子ども達に引っ張られながら楽しんでいたのだと気付かされます。

 

(案山子)

 

こんなことも有りました。炭焼き小屋が廃墟になり、そこにカブト虫が涌くほど繁殖し、採り放題状態になると、初めは多くの子ども達が喜んで採っていましたが、余にも多いので飽きてしまったのか?ゴキブリに見えたのか?帰るときには随分余ってしまったという記憶があります。

 

一番印象に残っているのは、平成20年(20087 28日早朝、浅野川では記録的豪雨に見舞われ、湯涌地区は孤立してしまいました。その日、金沢創作の森には宿泊していた親子がいて、湯涌街道は不通で当然北袋町の金沢創作の森は孤立状態でした。その時、東京出身の所長が市内の者でも余り知らないキゴ山から歩いて宿泊客の食料を運んだと聞いたときは、よくそんな道を知っていたものだと感心しながらも感動したのが思い出されます。

 

(みんなで植えた朝顔)

(シルクスクリーン工房・小学生の作品)

 

久しぶりに訪問し、シルクスクリーンの講師の方と再会し、今度は作品づくりにお邪魔することを約束してきました。

 

人馬同居の家 宮下家           (原文)

 

 

「旧江戸村」は江戸時代の武家屋敷、商家、農家、10数棟門や土塀が立ち並ぶ博物観光施設で昭和42年(1967)湯涌温泉街の山の中腹にホテル白雲楼の施設せしたが、施設を引き継いだ金沢市は、文化財保存上、より適した温泉街北側の金沢市湯涌荒屋町35番地1への再移築に平成22年(20109月、農家3棟、武士住宅1棟、商家2棟、宿場問屋1棟、武家門1棟、総計8棟の移築が完了し、新たに「金沢湯涌江戸村」をオープンしました。)

 

参考文献:「加賀能登の家」編者田中喜男 発行所株式会社北国出版社 昭和5010月発行 金沢湯涌創作の森のHPより

2018-10-07 15:45:31

「釣天井があった家」森山の足軽屋敷跡

テーマ:今昔

【森山二丁目(旧森山5番丁)】

今、流行の「断捨離」ではありませんが、暫くぶりに本棚の整理をしていたら数年開いていない本「加賀能登の家」が目に触れました。内容は地元に残る古い家屋敷が白黒の写真に解説付きで載っていて、解説には、確か昔中学校で習った先生も執筆されていたことを思い出しページを繰ると、2人の中学時代の先生と何年か前に古文書を習った先生も執筆なさっていました。

 

(加賀能登の家)

 

「加賀能登の家」は、昭和50年(1975)。当時の北国出版社が建築学視点より、時間に生き、生活に生きる家と人にスポットをあてた記録と家の意味を考えたもので、当時の金沢経済大学教授田中喜男氏が編者で、能登28軒、金沢54軒、加賀16軒の98を郷土史家、中学・高校の教諭等の識者58名が執筆に当たったものです。)

 

(我が家の本棚の一つ)

(加賀能登の家のページ)「釣天井のある家 山下家」

 

 

たま~に見ると新鮮に感じで、本の整理を中断して眺めていると、結構嵌ってしまいページを繰っていました。現存が確認出来る大野醤油の直江家や豪農の本岡家、尾張町の石黒家、飴の俵家、本多町の横山家など、他に職人の家や老舗の豆腐屋、足軽屋敷など、あれから40数年の歳月が流れ、今はどうなっているのだろうと云う思いがつのり、是非、見たいと言う衝動に駆られ、先日行動に移しました。

 

(山下家の現在)

(昭和50年頃の山下家)

 

一回目に定めたのは、中学時代の先生が執筆された森山2丁目16「釣天井のある家 山下家」という足軽屋敷です。Googleの地図を開くとすぐ見つかりました。果たしてどうなっているのかワクワクして自転車を走らせました。石置き屋根がトタンに変わっているのだろうか?いやいや建物もあの特長あり板塀もすっかり消えてモダンな家が建っているのでは?と想像すると興奮が止まりません。

 

(安政年間の絵図・大組足軽組地(角)は併設の角場)

(昭和24年頃の森山町小学校周辺)

 

山の上町の光覚寺前の飴屋坂を下り、森山町小学校の前から地図で調べた森山善隣館横の小路を入ると一直線に走り最初の右を曲がると板塀が目に入りました。そこから暫く行くと右に40数年前と同じような板塀と塀を突き破った桜の木がありました。写真で見る40年前の桜の木は細かったのに!!そういえば、当の先生も当時40半ば、私も30半ば、つくずく、過ぎし歳月を思い知らされました。

 

 (今の森山善隣館・白い建物は森山町小学校)

(反対方向から見た山下家の板塀)

 

塀はそのままの姿でしたが、真新しく感じられます。家は建て替えても板塀の風情はそのまま残したのでしょう?表札を見ると40数年前の記事と同じ山下貞雄とあり、お人柄がうかがえます。お声を掛けようか迷いましたが、取材でもないし、自分だけの楽しみでやっているので、町並みを眺めながら帰ってきました。

 

(森山2丁目は、明治になり、森山2番丁~5番丁や上田町などになりますが、藩政期には大組足軽組地で、鉄砲の訓練をする“角場”付きでした。大組足軽とは、加賀藩の戦闘要員としての主力部隊の内、鉄砲隊となる足軽で、その住居地が大組足軽組地で、その外の足軽には、中組足軽 持方足軽とも、弓足軽7隊、鉄砲足軽4隊で編成する全7組の足軽。先手組足軽 7組の人持組配下に属し、弓足軽7隊、鉄砲隊足軽14隊で編成された足軽。)

 

参考ブログ

足軽資料館①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12223773596.html

足軽の暮らし②

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12224101306.html

足軽の仕事③

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12224366501.html

 

 

「加賀能登の家」の釣天井のある家の原文

 

 

(森山2丁目(旧森山5番丁)

 

参考文献:「加賀能登の家」編者田中喜男 発行所株式会社北国出版社 昭和5010月発行

 

2018-10-05 12:59:40

豆腐一丁!?卯辰の七面さん蓮覚寺

テーマ:伝説・伝承

【東山2丁目】

先日、小立野公民館の行事「史跡めぐり」で、日蓮宗の蓮覚寺さんに行ってきました。私は初めてのお参りでした。藩政期から、室町時代の作とされる秘仏の画像七面大明神を祀っていることから「卯辰の七面さん」と呼ばれ、所願成就と云うことで、何もかも上手くいくらしく、宗派を越えて多くの信者が詣でたといいます。

 

(蓮覚寺)

 

画像の七面大明神は、19年に一度のみ開帳ということから、平素は寛文元年(1661)作の胡粉極彩色木造の七面大明神を拝んでいますが、木像は家康の側室於万の方(長勝院、天文17年(1548)~元和5年(1620)から加賀藩初代前田利家公の側室寿福院が、側室同士の誼(よしみ)から?戴いたと伝えられています。

 

(於万の方は、物部姓永見氏の娘で、通称おこちゃ、於万の方、小督局ともいわれ、結城秀康の生母。)

 

(七面堂・正面木造の七面大明神)

 

七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神で、七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになります。その本地は、山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺(敬慎院)に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれます。伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、永仁5年(1297919日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われています。

 

(七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られていて、その姿は役の小角の姿で、日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰がありました。日蓮より二百年余りの昔、京都の公卿の姫が業病にかかった際、厳島明神の「甲斐の国 波木井郷の水上に七つ池の霊山あり。その水にて浄めれば平癒せん」というお告げを受けて癒された姫君説話の舞台です。)

 

(蓮覚寺の解説板)

 

蓮覚寺(れんかくじ)さんは、 山号は本学山。寺記には、開基勧寺院日長が元和2年(1616)小庵を結び、当初は彦三辺りあり、弟子善行院日安(元石動山の修行僧)に小庵を譲られます。境内には七面堂があり、先に記した七面大明神の画像(伝説では土佐信之作といわれていたが、現在は土佐派と作といわれています。)があり、河北郡五箇庄清水谷村より出た当寺の開山檀那の清水屋清右衛門蓮覚日就が信仰し、善行院日安と謀り、日安は元々真言宗の僧であったが、京都の妙顕寺の12世玄孝院日尭の教えを受け改宗、寛永9年(1632)京都の本持妙顕寺の請い寺号を得ます。寺号は開山檀那の清水屋清右衛門蓮覚日就の名によるものです。

 

(蓮覚寺本堂)

 

(註:清水屋右衛門は金沢古蹟志によるもの、善右衛門と書かれたものもあります。また、画像は文明の頃清水谷の直乗寺に安置されていたと書かれています。)

 

 

(七面小路)

 

≪七面小路≫

金沢古蹟志には、七面小路を、蓮覚寺の前通りより高道町に通じる往来也。とあり、その蓮覚寺は七面繁盛せしより、小路の名に呼びて、今も七面小路と称す。とありますが、お堂の老朽化と昭和38年の38(サンパチ)の豪雪で建物の傷みが激しく、昭和39年に本堂の正面を逆向きにし改築しました。現在は七面小路が裏にありその沿道は住宅が建てられ向かいの妙泰寺や全性寺が続き、昔、巡礼街道といわれた風情が残されています。

 

(妙泰寺)

(全性寺と巡礼街道)

 

≪蓮覚寺の墓所≫

〇加賀藩主3代前田利常生母の寿福院の実家である上木新兵衛家の歴代墓所がある。

 

(上木家の墓)

 

〇辰巳用水を開鑿した板屋兵四郞のものと伝わる墓があります。その墓碑名は、今読めませんが木屋と有ったそうで、お寺の大奥様の話では長い間お盆になると板谷さんと云うご夫婦が墓参にいらっしゃったとおっしゃっていました。

 

 

(板屋兵四郎の墓といわれる墓)

 

〇尾佐竹猛のお墓があります。猛は加賀藩の儒者の子として羽咋郡高浜で生まれ明治の法律家でしたが、判事に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけ、研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴。一方で、大正13年(1924)に吉野作造・宮武外骨らとともに明治文化研究会を設立し、「明治文化全集」などを編集しました。

 

 

(尾佐竹猛の墓)

 

他に金沢の金城学園の創立者加藤せむのお墓があります。

 

(蓮覚寺の墓所・昔はもう少し山の方にあったとか・・・)

 

一寸残念だったのは、加賀万歳で謡われている「豆腐一丁蓮覚寺」の由来!?

 

蓮覚寺のあと、三宝寺を訪れました。以下、以前に書いたブログ参照

”心の道”癒しのスポット⑧三宝寺

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11187135740.html

 

(三宝寺・6年前のお上人さまは、真成寺に移り、今は息子さんでした。)

 

参考資料:金沢古蹟志第12編巻3350P・小立野の「史跡めぐり」の資料・蓮覚寺の前上人さんの奥様のレクチャーなど

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