本因寺(ほんにんじ)因は“にん”と読む。 | 市民が見つける金沢再発見

本因寺(ほんにんじ)因は“にん”と読む。

【寺町5丁目】

犀川左岸、桜橋から通称Wと呼はれるジグザクに折れ曲がった坂を登り、片側木々が鬱蒼と茂る(本因寺墓所)細い道を真っ直ぐ行くと寺町の大通りに出ます。右に折れ下(しも)へ少し歩くと最初のお寺が、法華宗本門流興冨山本因寺(ほんにんじ)です。元和元年(1615)京都本能寺第十二世伏見宮日承の弟子である真浄院日得上人を開山に迎えて建立されました。この年に大坂夏の陣が起こり、当時、江戸幕府は武家諸法度や禁中並公家諸法度を制定し、着々と支配体制を整えていました。

 

 

        (犀川左岸からW坂) 

 

当寺には、横山康玄の乳母の他、小田原北条家の家老職であった松田家、中条流の冨田勢源から剣術を相伝された関流剣術関重秀、加賀藩の初代御茶堂頭をつとめた遠州茶道の市井友仙等の菩提寺です。

 

(寺町の本因寺)

 

横山康玄の乳母、興冨院殿本日因大姉を弔うため、元和6年(1620)横山家の申し出により現在の寺地を拝領します。ちなみに、横山康玄は加賀藩の家老で、加賀藩3代藩主前田利常公が江戸幕府から謀反の嫌疑を受けた際に、必死の弁明をしてその嫌疑を晴らすという功績を挙げます。

 

現在の建物は延享元年(1744)第6世隆善院日應上人の代に再建されたものです。

 

横山康玄の父親である横山長知もやはり加賀藩2代藩主前田利長公が徳川家康から謀反の嫌疑をかけられた際に江戸城に赴き弁明をしています。父子2代に渡って対徳川家交渉で活躍します。彼ら父子の横山家は加賀藩の「加賀八家」のうちの一家として、藩政期、藩の重臣として重きをなしました。

 

 

(寺町の本因寺・安政期の地図より)

 

 

≪前田利長公に仕えた北条家所縁の松田家≫

松田尾張守憲秀は後北条氏の家臣で、北条早雲以来、家老職を勤めた家柄で、当時は北条氏家臣団中最高の2798110(松田一族では3922995)という知行を食む大身だったといいます。

 

 (本因寺の庭園より墓所)

 

相模松田家は藤原鎌足を遠祖とし、その13代目藤原公光の時に相模守となり相模国秦野に土着します。14代藤原経範は波多野に改姓し、波多野氏の開祖となり、19代義常は松田郷に住み、その子有常は松田を称して松田次郎と名乗り、松田氏の始祖となります。当時波多野氏から分かれた一族は松田の他に河村、広沢、大友、菖蒲、沼田、大槻、小磯、宇治等があります。

 

 

(本因寺の庭園)

 

≪北条家と松田家≫

天正8年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐では3代北条氏康の仕えた松田尾張守憲秀は、当初は徹底抗戦を主張するも、秀吉側の堀秀政らの誘いを受けて長男・笠原政晴(政尭)と共に豊臣方に内応しようとします。しかし、次男直秀の注進で5代北条氏直によって事前に防がれ、憲秀は監禁、政晴は殺害されたといわれています。

 

この事件は、北条家に降伏を決意させることとなったといわれていて、この結果、子の政晴については積極的に内応をしようと次男直秀に相談していたという経緯があったために、憲秀とは違い即座に死罪となったと推測されますが、一説には政晴が僧になり静岡県三島市の蔵六寺を開山し、寛永3年(1626)に60歳で病死したという寺伝も残っています。

 

 

 

 

≪松田家と惣構≫

松田憲秀の次男直秀5代北条氏直に従い高野山に入り、北条氏直死後は四郎左衛門憲定と改名し、豊臣秀次公に仕え、その後前田利長公禄高4,000で招請され、高山右近の配下として内惣構を10ヶ月で完成させ、慶長19年(16147月に金沢で没します。

 

金沢の内惣構は、防御力が最強といわれた小田原城をモデルにしたもので、土塁の高さは10m、用水の幅は7m、土塁には竹と木が植えられています。2代藩主利長公は、慶長4年(1599)高山右近に命じて金沢城の防備のため東西内惣構が造られ、11年後、慶長15年(16103代利常公が同じ目的で篠原一孝に命じて東西外惣構を造られます。

 

 

松田四郎左衛門憲定の子四郎左衛門憲里(2000石)には、子がなく絶家。後に娘の子をもってお家再興を願い出て松田九郎右衛門憲信は200を拝領し、長町3番丁に200坪の屋敷を構え、菩提寺は寺町法光寺。憲里の弟四郎兵衛500は、屋敷は長町4番丁で、菩提寺は寺町本因寺(ほんにんじ)にあります。

 

幕末の侍帳によると、両松田家は幕末まで加賀藩に仕え、松田九郎右衛門憲信家(長町)は200石で役職は御馬廻組、松田外次郎憲一家(古道)が400石で役職は筑前守様御小将。弟の子孫松田昇五郎元郷家(長町)は150石で役職は筑前守様御側小将。

 

 

金沢には、本因寺のお墓にように時には一見金沢とは関係なさそうな家名を見つけることがあります。初代利家公のころの人材は、本座者(荒子衆や越前衆)に加え、新座者といわれた朝倉、六角、能登畠山の遺臣が主流でしたが、2代利長公の時代になると、急成長する中で広く人材が集まります。例えば、北条家の場合は、藩政初期鬼川(大野庄用水)開削したという富永家猪俣家など、由緒帳を調べると上杉家真田家、里見家など名高い武家の家々が名を連ねています。

 

参考資料:本因寺(ほんにんじ)のパンフレット、金沢観光ボランティアガイド宮内昌克氏の調査資料他