明治の金沢工藝①産業化の先駆け!! | 市民が見つける金沢再発見
2016-03-02 18:08:36

明治の金沢工藝①産業化の先駆け!!

テーマ:伝説・伝承

【旧長町川岸】
明治維新により、日本の多くの地域で伝統工藝はパトロンを失い、衰退の道をたどります。それは金沢の工藝も例外ではありませんでした。しかし、失うには惜しい伝統の数々を知る町人達により、熱心な振興策が練られ、伝承の道が探られます。そして金沢総区長であった長谷川準也が、加賀象嵌のヨーロッパ輸出を推進します。当時、ヨーロッパでアジアンブームだったこともあり、大好評を博し、金工工場(銅器会社)が設立されます。



(加賀藩が消滅し、工藝のパトロンを失う・・・)

(幕末の金工職人は、京の後藤顕乗の弟子で慶長年間に金沢に移住した水野家の8代水野源六を含め45人余(町職人は含まない)、いずれも工房の経営者か藩の細工人でした。廃藩置県によって細工人は失職し,御用職人も藩の用命がなくなり呆然自失だったと伝えられています。)



(明治の金沢城鼠多門)


明治4年(1871)の廃藩置県では金沢県となりますが、翌明治5年(1872)に県庁が石川郡美川町へ移転し、郡名をとって石川県と改称、明治6年(1873)県庁は金沢町に県名はそのままで復帰しますが、金沢町の衰退が続いたため、積極的な殖産振興策として工藝の産業化が計られます。明治5年(1872)明治政府は翌年春に開催予定のオーストリアのウィーン万国博覧会に出品するため、政府は作品を石川県にも依頼し、それに応じ金工職人に作品の製作を命じます。


(県庁を美川に移した初代県知事内田政風)


(藩政期、金沢の金工は後藤氏の統制下にあり、素材は赤銅と金など、象眼も鉄地に金・銀・四分一・赤銅などを嵌め込むものですが、ウィーン博覧会への出品製品は、青銅・赤銅などに象眼する銅器で加賀象眼と異なり一大転換でした。版籍奉還から廃藩置県の大変革のなかで模索する加賀金工職人にとっての生き残るための試練だったようです。)
四分一[しぶいち](銅4分の3,銀4分1の合銀で朧銀といわれる)


(金沢銅器のイメージ写真)

幕末、銅器の海外輸出は越中高岡で始められます。嘉永期、高岡商人が横浜に出て高岡の銅器をアメリカ合衆国に輸出していますが、明治政府でも殖産興業策に合致した製品として高岡銅器が認められます。明治5年(1872)のウィーン博覧会用の政府依頼の花瓶の製作過程で金沢職工の象眼技術が富山職工より優れてことから、明治6年(1873)から高岡の工房に金沢の金工職人がスカウトされています。
(記録では、高岡にスカウトされた職人の中に明治の文豪の父泉清次の名前も見えます。)



その時、名工といわれた金沢の金工職人が多く招かれています。その職工のうちには生活のため高岡に居を移したものもいましたが、金沢に帰るものも少なくなかったことから、高岡の商人金森宗七が金沢彦三1番町68番地に、32人の職工を擁する銅器製造の宗金銅器工場を開設されたのが金沢での銅器工場の先駆けとなりました。


(この宗金銅器工場は「宗金堂」のブランドで、製品については、ここに勤めた米沢清左衛門のメモによると「花生風は、クミ立花生・武士人物・花鳥等彫上・こうらん付花生等で、この時にはじめて四分一、銅、赤銅を象眼に入る事をはじめ・・・」とあり、製品には「宗金堂=」あるいは「石川県金沢=宗金堂」と彫れているそうです。)


(円中孫平)


”ジャパンクタニ”円中孫平①②

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11220694451.html


http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11233521859.html




(金沢総区長谷川準也)


そして、明治7年(1874)に、金沢総区長の長谷川準也が金沢片町の商人円中孫平の後援でアメリカ行製品の発注を得たため金沢上柿木畠にあった区方観業場に鏨工方を置き,宗金堂雇用の職工から24人を引き抜き、棟取水野源六・平岡忠蔵・山川孝次で銅器製造を始めます。



(区方勧業場があった旧壮猶館・現知事公舎)

(白いビルのところに金沢銅器会社があった長町川岸)


金沢銅器会社の設立は、明治9年(1876)長谷川準也は金沢高岡町下薮ノ内の民家を改築して工場とし,40人余の職人を集めて銅器の製造を始めます。さらにこれを民間企業として独立させるべく政財界人30人から資金を集め、翌10年(1877)2月長町川岸44番地に新工場を築き資本金5,230円の「銅器会社」を設立します。社長が長谷川準也、副社長に弟の大塚志良、社員に佐野忠道・鈴木某が、職工棟取に水野源六・副棟取平岡忠蔵・山川孝次が任命されます。



(金沢銅器のイメージ写真)


明治10年(1677)の第1回国内博覧会に花生、香炉、菓子器などを出品し、翌11年(1878)パリで開催の万国博覧会にも出品を果たし、その年明治天皇が北陸巡幸に際し視察され花瓶など2000円ほど買い上げられます。


(つづく)


参考文献:技術と都市社会研究会「金沢金工の系譜と変容」田中喜男著・国際連合大学
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