島田清次郎⑤天才と狂人の間 | 市民が見つける金沢再発見

島田清次郎⑤天才と狂人の間

【金沢→東京】
絶頂の島田清次郎は、大正11年(1922)に「地上」第四部を書き終え、4月17日に外遊、12月初旬に帰国していますが、大正8年(1919)「地上」第一部の発行からわずか3年、島田清次郎の私生活は一変、もともと傲慢がさらに慢心に、郷里の友人や先輩を何ら義も情もなく見下しこき使い、文通相手のファンの女性と強引に結婚。妻への暴力は常軌を逸し、洋行前に浮気防止のため髪を切る暴挙、洋行中に妻に逃げ、日本の文壇とも対立し、また自分の愛読者だった海軍少将令嬢を「誘拐監禁」し結婚を迫るに及んで誘拐監禁で逮捕されます。



西茶屋資料館の資料より)

この海軍少将令嬢の誘拐監禁事件は、今までの鬱憤を晴らしかのように雑誌や新聞の記者は面白おかしく書き立て、大騒動へと発展します。告訴は後に取り下げられたものの、島田清次郎の名声は一気に悪名に変わり、原稿の受け取りも拒否され、そこへ関東大震災が起こって自宅倒壊。すでに洋行や弁護士費用で印税をあらかた使い果たしていたため、一年もたたぬうちに経済的困窮に陥ります。


(アメリカで島田清次郎と俳優早川雪舟・西茶屋資料館)


大正13年1月。東京を逃れた清次郎は新年を金沢で迎え、母親と同居するが、やがて別居、母親さえも寄せ付けず、一歩も外へ出なかったといいます。そのころになると清次郎には何処からも原稿の注文がなく、一文の収入はなく、一人の訪問客もなくなります。


(「地上」の続編といわれる、大正12年3月と12月発行の2冊で1冊は春秋社)

何でもいいから金になる仕事をと、郡役所時代の上司の家を訪れ、残高300円(現在の約90万円)の預金通帳を見せ、月30円でも50円でもいいから勤め口の斡旋を依頼しますが、元上司は洋行帰りの天才に当惑するだけだったといいます。


埒が明かず、月1000円も使った男は金策のため上京。少しでも関わりのあった新聞社や雑誌社、出版社へ借金を申し込みますが、一度社会から葬られた男に、金を貸す馬鹿はいないことに気付かされます。


(西茶屋街にある文学碑)

宿賃も払えなくなると、清次郎に好意的な作家の自宅を訪ね金の無心や泊めてもらっていますが、やがて行方不明になり、7月になりと吉野作造博士の家の押しかけ、博士はやむなく2晩泊めるが、夫人や令嬢の部屋まで入り込むので刑事が連れ出されると、野宿、連行、やがて徳田秋声宅へ、徳田家では度々なので、警察に電話し連行、最後は押しかけ、主不在に書生の部屋の泊まりこんだのは菊池寛の家だったといいます。


(今年、石川近代文学館で開催された「島田清次郎展」のポスター)


精神鑑定の結果、「早発性痴呆症の中破爪病(現在の統合失調症)」と決定、大正13年(1924)7月東京府下西巣鴨庚申塚の保養院に収容され5年数ヶ月、抹殺状態に置かれます。しかし、知的能力にダメージは無く、実は病院内でも執筆を続け、その活動は死の寸前まで続いたといいます。(この間大正末に出て人気を博した「円本」でも彼の作品は収録されているそうです。)統合失調症の病状は快方に向かっていたといいますが、肺結核が次第に重くなり昭和5年(1930)4月26日に死に至ります。療養中は往年の傲岸不遜の姿は微塵もなく、だだただ謙遜で、丁重でお辞儀ばかりしていたそうです。


(島田清次郎)


(統合失調症は、物事をコンパクトにまとめる統合能力に障害がでることで、平成14年(2002)以前には「精神分裂病」といわれましたが、この病名では精神そのものが分裂しているというイメージを与えたことから、それまで統合されていた精神が調和を失うことによって分裂・崩壊した見解・思考・行動を来たすという病態に基づいて、「統合失調症」へと改められたそうです。)



(芥川龍之介)


「統合失調症」患っている人の中には特定の分野・領域で異才を放つことがあるいわれ、特に物書きは、統合失調症的なところがなければならないという学者もいるらしく、チェコの小説家カフカ、ドイツの哲学者で思想家のニーチェ、画家ではノルウェーの画家ムンク、オランダの画家ゴッホなども患っていたことが知られていて、日本の作家でも清次郎のほか、著名な芥川龍之助や夏目漱石が統合失調症を病んでいたのでは?といわれています。



(夏目漱石)


参考資料:「天才と狂人の間」杉森久英著 石川近代文学館 平成7年15日発行・文壇資料「城下町金澤」磯村英樹著 講談社 昭和54年9月15日発行・風野春樹著「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」風野春樹著 本の雑誌社 平成25年8月発行