幕末の爆発事故!硝石は改築の町家からも採集 | 市民が見つける金沢再発見

幕末の爆発事故!硝石は改築の町家からも採集

【並木町→壮猶館】
火薬は藩政期、今の「核」に匹敵する程の戦略物資でした。しかし、爆発すると手に負えません。これまた「核」と同様に大惨事をもたらし、多くの人々を巻き込みます。私ごときが今更…ですが、人はその事をよく分っているはずなのに、ほとぼりが冷めると”国防“だとか“安全”とか言ってやりだします。昔も今も忘れた頃に、自然が災害を連れてやってきます。


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(現存する壮猶館の門)


前にも書きましたが、加賀藩では、領内に越中五箇山をかかえ、独特な手法で火薬の原料の硝石が製造されていました。幕末になると、今風にいう”抑止力“として増産が始まります。ちなみに文化年間(1804~)には年間5トンの生産量が、約50年後、黒船来航の嘉永6年(1853)頃には35トンも製造され、備蓄量は560トンと江戸幕府より多かったと言います。


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(壮猶館跡・現知事公舎)


加賀藩では、黒船来航の翌年嘉永7年(1854)8月に軍事近代化のため、壮猶館の前身の西洋流火術方役所を上柿木畠に開きます。

市民が見つける金沢再発見-五

(五箇山)


今日の話は、慶応2年(1866)3月のお話です。玉川図書館近世史料館刊の「加賀藩塩硝関連年表」によると、“壮猶館弾薬所で火薬が爆発し、死傷者15人を出す”とあります。
幕末の庶民の日記「梅田日記」の記事にもその記述があり、当時の様子を垣間見ることができます。関連の記述と合わせて引用します。


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(壮猶館の火薬製造中の爆発による死傷者のほとんどが“能”関係の人でした。逼迫した藩財政から金沢城内での能御用がなくなって多数の能役者が配置転換で従事していたといいます。)


慶応2年(1866)3月7日
一、今日昼九ツ半時(午後1時)過之頃、壮猶舘弾薬所ヨリ出火、右者薬合ヨリ出候火ニ而、其廻り御建物丈ケ(だけ)引チギリ行候躰ニ相見へ申候、其外御囲内御建物ハ異変無之、尤外類焼之義ハ無之相済候へ共、何分ケ所柄与申、御殿近カ之事ゆへ、一ト方ならす騒キニ御座候、且弾薬所へ御雇ニ罷出居候者等之内、即死并怪我人交名、左之通、
(朱書、以下同)
怪我「翌八日夜死」太皷 桜井弥三次 歳四十八
帰宅、即刻死   波吉方之ツレ小方 越中屋栄次 歳十三
怪我「九日死」  笛 京屋和三郎 歳十四斗
同「十日死」   同 寄嶋屋弥一郎 歳三十斗
同「翌八日死」  小皷 蔵五郎兵衛 歳五十二、三斗
同        笛 藤田(ママ)多喜次郎 歳十三
同        金春之ツレ師 竹内屋次右衛門 歳五十斗
同「十日死」   同断、同断 塩屋幸蔵 歳五十五、六
同        地謡 若林屋金右衛門 歳二十九斗
即死       小皷 敦賀屋吉十郎 歳十六
即死、片手なし  狂言師 古沢粂吉 歳十六、七
怪我「十四日死」 小皷 尾山屋喜三郎 歳五十五、六
同        波吉方之ツレ師 宮川屋宝次郎 歳三十五、六
同「翌八日朝死」 大場幸三郎方門人狂言師 剱崎屋太一郎 歳四十七、八

拾四人
怪我 御細工人 黒田新左衛門

右之外、薄怪我茂十人余有之由、前段之人々ハ、怪我与申而も一ト通ならす義ニ而、火事之節、途中ニて壱両人見請候処、誠ニ目茂当テラレヌ身体ニ而、歎ヶ敷(なげかわしき)事ニ御座候、何レ茂存命計りかたく、右朱書之通り追々死シ申ス次第ニ御座候、且右拾四人之者共へ、壮猶舘ヨリ頃日銀弐百目充御取扱有之、重而当十一日御上ヨリ左之通り御書立ヲ以、三人扶持人(衍カ)被下、死去之者共へハ、其外ニ銀三拾枚充被下、難在仕合ニ御座候事、猶亦重而町会所より銀三百目充被下候由、
町奉行江
一、三人扶持 藤屋 多喜次郎ニ候、依之如此被下之候条、可被申渡候事、


市民が見つける金沢再発見-②

(壮猶館跡)

梅田甚三久は、“謡(うたい)”で弟子を取るくらいですから、能役者の知り合いもいたのでしょう?死傷者(能役者)の名前、年齢(13歳~55・6歳)、役まで詳しく書かれています。また、見舞金も書かれていますが、超インフレの慶応期で、現在の金額や価値にするとどうなのか?よく分かりませんが、銀1匁(目)1,660円として計算しますと・・・。
壮猶館より  銀200目 332,000円
御上より   銀 30枚2,150,000円 / 三人扶持 米3石
町会所より  銀300目 498,000円
見舞金額の推定は2,980
,000円+米3石

(但し、慶応2年の加賀藩内の米価1石200目~300目(御留書・伊東文書等)甚三久は1年半程前に1石あたり110目で買っています。それにしても大層な値上がりようです。ちなみに甚三久の年収600目)



市民が見つける金沢再発見-並

(甚三久の家があった並木町の今)

元治元年(1864)6月23日 雨天、昼過より曇り気色、
一、此元家普請方ニ付、板敷取はづし候、夫ニ付、右床下タ土、硝石方ニ御入用之義、兼而町中一統へ御触渡之義も有之ニ付、昨日役所ニおゐて、右主付辻宗五郎様へ相達置候処、今朝人足来り、然処(しかるところ)右板敷一昨日取はづし候節、上ハ藻屑取捨置候義不心服之旨ニ而、色々申立居候由、夫ニ付組合頭ヨリ呼ニ来り、則罷越并辻宗五郎様江も罷越、面談委曲申述候所事相訳(分)リ、勿論別ニ障り候義も無之、先ツ只今在ル所之土を被取越候事ニ相成、則堀(掘)取片角(かたすま)マニ積置、今日之所人足之都合悪敷難引取段、人足之者申聞ニ付、明日引取候様申談、土ハ片角マニ積置候侭ニ而、人足相帰シ候事、
一、時節為見舞、番代理作被見へ候事、


元治元年(1864)6月25日 曇、昼頃より天気。
一、 硝石方へ指出候店之間丈(だけ)土目形三百三貫目有之候由ニ而、今日代り石砂等右
目形丈ケ持運ヒ候事、


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(藩政期の町家・イメージ写真)


便所の土に硝石が含まれているので、家の改築の時、壮猶館が便所の土を取りに来て、代わりの土を運んで来た記事。嘉永元年(1848)に、藩は五箇山に塩硝の増産を促しています。元治元年(1864)頃には、五箇山の塩硝だけでは足りなくなったのでしょうか?ちなみに万延元年(1860)には寺院床下の土採集方を許可されています。


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(現在の並木町・甚三久が改築した家があったという)

参考文献:長山直治、中野節子監修「梅田日記・ある庶民が見た幕末金沢」2009・4発行
近世史料館開館10周年記念特別展「加賀藩の塩硝」など