松田文華堂②海保青陵 | 市民が見つける金沢再発見
2011-01-15 11:32:18

松田文華堂②海保青陵

テーマ:伝説・伝承

【浅野川大橋→中の橋間】
松田文華堂の店内に入ると店先に「堂華文」の揮毫の額が掲げられています。書は、文化2年(1805)夏から尾張町近辺の宿屋に逗留し、加賀の名士に自説を説いて回っていた海保青陵によって書かれたものと言われています。


市民が見つける金沢再発見-文華堂

(海保青陵の揮毫)


海保青陵と松田文華堂の主、四世松田平四郎とは交渉もあり、青陵の自筆漢文で書かれた「娼説」が松田家に保存されていたと言います。平四郎は商人としてなかなかの行動派だったようで「直捉え(じかとらえ)」など現場発想の青陵学問の影響が伺えます。また、隠居後、平四郎(四世か?)文政11年5月に、藩に遠所旅人宿の営業願いを出した記録も見えます。


松田文華堂は、父子相伝の筆屋で、もともと松田家は、本家分家とも御国染「黒梅染」を業としていました。分家が筆を商うようになり、当主は代々“平四郎”を襲名します。四世平四郎は俳諧に長じ、風流を好み、金沢八人衆とうたわれた旦那衆だったそうで、青木木米を招いて開窯した春日山窯の開窯から廃窯まで窯元でした。


(松田家の屋号は「黒梅屋(くるみや)」と言い、本家は元陪臣。今枝内記の奥向に二十人扶持で仕えた松田左膳が始まりです。子供がなかったので越中から染物にいささか心得のある八郎兵衛を養子に迎え、出仕を辞し、染物屋を始めたと言われています。黒梅屋橋(くるみやばし)は味噌蔵町の東内惣構堀に架かる橋で、その袂に黒梅屋があったので、黒梅屋橋と言われたと伝えられています。)


市民が見つける金沢再発見-箱書き

(四世平四郎の晩年造った楽焼・松田文華堂蔵)


市民が見つける金沢再発見-蓋

(楽焼の箱書き・松田文華堂蔵)

四世平四郎は帝慶斎馬宋と称し、青木木米の弟子で、文政3年まで春日山窯の窯元。その後隠居、楽焼に遊ぶ。天保5年、71歳で没したと書かれいます。

帝慶は、春日山を5代藩主綱紀公が帝慶山と詠ったことによるもの。


海保青陵は、文化、文政期“経済競争戦国時代”とぶち上げ、“特産品を開発して、全国市場に売り、大いに稼ぐべし”と唱えたといわれています。儒者であり経世家であり経済学者ですが「行ク処必ス逗留シ書ヲ講セリ」と言いますから、今風にいうと経営コンサルタントだったのでしょう。


海保青陵の主張は、武家は経済的感覚が全くなく、また、ないことを誇り、同時に商業を賎業とし軽視する傾向があり、武家には経済問題を解決することは無理であるといい、藩は商人を通して商売をすべきで、武家は現在でいうところの経済官僚になり、大阪の大商人の情報、やり方を活用し、今のJRみたいな官業民営化のような藩営の総合商社になるべきだといっています。


市民が見つける金沢再発見-ひきだし②

(松田文華堂の店内の昔から伝わる引き出し)


海保青陵は、文化2年(1805)残暑。金沢城下尾張町近辺の宿屋に入り、翌3年(1806)春に越中高岡へと加賀藩領内にいて、どこの土地でもしなかった一年もの長逗留をしています。分別盛りの51歳。農本主義の加賀で、覇道を説くのですから、青陵も危険視されぬよう用心深く説き回り、練りに練った加賀藩の再建プランを加賀藩の上層部に献策する日を心待ちにしていましたが、ついにその日は訪れないまま加賀藩に見切りをつけ京へ去ったといいます。


青陵の加賀藩への献策は「経済話」に記されているそうですが、主張が実った例としては九谷焼の再興があります。古九谷が途絶えて百年近く、加賀では大樋焼を除いてほとんど陶磁器が生産されず、藩外からの輸入に頼っていました。そこで青陵が滞在中の文化2年(1802)金沢の有力町人たちが製陶再開を藩に願いで、文化3年(1803)京都から陶工青木木米が招かれて、文化4年(1807)11月、金沢卯辰山で春日山窯が始まりました。藩の緊縮政策で間もなく衰退しますが、これをきっかけとして南加賀に若杉窯、吉田屋窯が生まれ、今日に至る九谷焼の基礎が築かれました。


優れた献策でしたが、ほとんどは受け入れられなかったといいます。少し後の加賀藩士で儒者で黒羽織党で知られる上田作之丞は「青陵に加賀の政治を任せたかった」と語ったと言われています。


市民が見つける金沢再発見-ひきだし①

(今に残る、昔の引き出しなど)


「経済話」に書かれたいている中に、青陵は加賀米が、まずい米と思い込んでいたが、加賀に来て食べてみるとうまい。悪い米を大坂に回して、良い米を領内で食っているのを知り、それならこの良い米を残らず大阪に回し、半額ぐらいの越後米を買うと二、三十万両(一石一両として、今の価値に換算すると一両10万円とすれば200億から300億円)は儲かるといっています。


「経済話」には、加賀藩の政策について、褒めたりけなしたり、ここまで言うかという強烈な批判や、こんな風に考えるか?といった、時には筋違いのものもあり、歯に衣を着せぬ青陵の直言には、加賀藩士からも反論が有ったと聞きます。


参考文献:北国新聞社「金沢学序説」www.kanazawagaku.com/

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