市民が見つける金沢再発見

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2018-11-19 19:43:34

「兼六園」で具現化された仏教・神仙思想など

テーマ:伝説・伝承

【兼六町】

平安時代、京都では庭園に「阿弥陀信仰」による浄土の世界を写すことが流行ります。浄土とは仏様の住むところで、西方浄土 (極楽浄土) のいう極楽往生のことで、庭としては浄土曼荼羅を具現化したものです。理想境としての池泉を大きくうがち、蓮を植え,八功徳水(はっこうとくすい)を湛える清浄香潔な景色を中心に構成されます。治安2年(1022)に藤原道長は前代未聞の浄土世界を忠実に再現した寺院を建立します。

 

 

(兼六園瓢池)

 

九山八海

九山八海とは須弥山を軸にこの世のはずれである鉄囲山に接する南瞻部州(なんせいんぶしゅう)の大海までの間に九つの山と、その間に形成される八つの海をいうもので、庭に島々を浮かべ、平庭に立石や築山をあげて九山八海を具現し観賞者へ仏理を教えます。

 

(二俣の本泉寺の九山八海)

 

加賀藩は藩政期以前、一向宗徒による治政時代があり、今の兼六園瓢池辺りが蓮池と呼ばれていたらしい、蓮池と云うのは一向宗の寺院の前濠のことで、その頃には、この辺りに九山八海の庭があっても決して不思議ではないと思われます。二俣の本泉寺には、今も蓮如上人が作庭されたと言われる「九山八海の庭」があります。

 

(本泉寺山門)

 

神仙三島・五島

仏教伝来は、わが国の思想形成に大きく影響を及ぼしたのは、中国大陸の神仙思想でした。神仙三島とは,中国の三神山すなわち蓬莱(ほうらい)・瀛州(えんしゅう)・方丈(ほうじょう)の三山で、また大海に浮かぶ神仙すなわち仙人が住む三島を意味します。庭園では九山八海と共に池泉の中島や枯山水庭の石組、平庭の築山などは暗示的です。神正五島とは三島に、「岱与(たいよ)員きょう(いんきょう)二島を加えたものです。有名な竜安寺石庭は比喩的だと言われています。兼六園の瓢池は、蓬莱・瀛州・方丈の三島が構築されているそうです。

 

(兼六園の瓢池)

 

鶴亀庭

中国道教思想に基づき、不老長寿を願い、慶祝を表すもので、鶴、亀に見立てたもの(島等)を造くったもので、兼六園では、亀頭を模した石柱がある亀甲島(蓬莱島)とを模した唐崎の松があります。その他にも亀石や鶴を模した植栽があります。

 

 

(蓬莱島の亀頭石)

(鶴に見立てた唐崎の松)

(瓢池のえん州島の亀石)

 

滝と竜門瀑

日本では美しい自然風土は、多雨な気候とも関係し,大小の河川や渓谷美をつくり、そこに滝や沢をつくりました。庭の滝は大きな鏡石と呼ばれる据石を中心に組まれ,滝は不動明王の居処として、不動石が組まれ、天端(てんぱ)には庭全体の主人としての観音石を据えたそうです。古くから滝石組は,音羽の滝,那智の滝,日光華厳滝,奥州厳美渓などが手本となっています。兼六園の「翠滝」は、七瀬滝と呼ばれていたものを、11代治脩公が安永3年(1774)に改修工事を行っています。

 

 

(瓢池の翠滝)

 

廻遊式庭園・林泉庭

幕藩体制の確立とともに大名時代には、その財力を傾けた廻遊式庭園が現れます。江戸には大名の上・中・下の各屋敷には書院の裏の庭として大庭園が営まれ、それぞれの国表の有る城下町にも庭が次々と庭園が出来ました。ある所では明るい解放的な池泉庭とし,またあるところで幽邃(ゆうすい)な深山の景をつくったりしました。これなどは自然を凝縮した林泉庭といいます。前田家の江戸表の庭園は、家康から利常公が拝領した辰口新殿、本郷の育徳園、根岸の冨有園などがありました。

 

(兼六園の霞ヶ池)

 

大名庭園

大名が作庭したものの多くが廻遊式庭園ですが,そのはじまりは,織田信長が安土城または岐阜城の御殿の周囲に作庭したことにより、豊臣秀吉が聚楽・伏見両城に風雅を楽しむための一画「山里曲輪」を築いて、茶の湯を楽しんだことで流行を生みます、徳川家康は山里曲輪として西の丸をつくり、後に吹上へと徳川家光が築きあげたのです。これら城と関わりがありますが大名の中には,元和偃武により城の改修ができなくなりましたので、庭づくりと称し,山里曲輪的な築城したものが多くなります。岡山後楽園・金沢兼六園・水戸偕楽園をはじめ、城に隣接して形成された廻遊式庭園がこれです。このような庭園

を城郭庭園といいます。

 

(兼六園の雪吊り)

 

縮景庭

廻遊式林泉庭の多くが、その思いを自然に求めていますが、手本となる風景がある場合、凝縮して作庭しました。多くが壮大な庭ですので,中国の浙江省の西湖、湖南省洞庭湖にその手本を求めましたが,わが国の名勝である松島,天の橋立及び東海道と富士山なども多く,京では近江八景・瀬戸内の景などにも求められました。兼六園霞ヶ池の、新潟の親不知滋賀の琵琶湖、それに謡曲の杜若石橋などが縮景と言われています。

 

(兼六園霞ヶ池の杜若)

 

露地

戦国乱世から天下統一に進むにつれ織田信長は配下の武将へ、合戦の論功行賞を与えていましたが、その基盤となった土地が足りなくなり、信長は土地に代わり刀剣、茶器、家紋や姓氏などを与えます。その中でも単なる茶碗として片づけられない茶陶が一国の封地に相当する価値を生じさせていくもので、いわゆる名物です。こうして茶の湯は、武将間に流行し信長、秀吉の配下には出身が商人でありながら茶道の指南役の千利休らを大名格に取り立てます。利休は「侘茶」「さび茶」を説き、その教えは小堀遠州ら武士との関わりは、山里曲輪を出現させ、廻遊庭の中に茶亭、四阿(あずまや)を造らせます。また、喫茶のための茶亭とそれに付属する踏石、蹲踞(手水鉢)からなる茶庭としての露地が利休によってあみ出されました。兼六園には、藩政期から現存する露地は瓢池の夕顔亭があります。

 

(夕顔亭)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務局.兼六園観光協会 昭和511231日発行 

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiV-4PFieDeAhVSFogKHbaMC1kQFjAAegQICBAB&url=http%3A%2F%2Fwww2u.biglobe.ne.jp%2Fgln%2F20%2F2031.htm&usg=AOvVaw3dSsR_DxOYBKSLuEDuMcg0

2018-11-03 21:06:18

作庭記と兼六園①

テーマ:伝説・伝承

【兼六園・十間町】

何年か前に「兼六園全史」“第三節 兼六園と作庭記“に触れ、その写本が金沢の古美術商谷庄さんの所蔵だと言うことを知り、一度調べてみたいと思っていまいしたが、なかなか神輿が上がらず、また、文章だけの記述は読んでいてもチンプンカンプン。私には、手に負えないモノだと思い込んでいました。

 

(兼六園霞ヶ池)

 

最近、兼六園全史を調べる機会があり、またまた“第三節 兼六園と作庭記“に引っかかり読んでいると、一部ですが各章に書かれている内容は、兼六園の実景と合わせて述べられ写真も添えてあるのを見て、これを参考にすれば、私にも時間を掛ければ出来そうに思へて取り組んでみる気になりました。一回目の今回は、「作庭記」の概要最古の写本がある金沢の古美術商谷庄さんに付いて記すことにします。

 

(兼六園全史の作庭記)

(兼六園雪づり)

 

≪作庭記の概要≫

「作庭記」は、平安時代に寝殿造の庭園に関することが書かれた日本最古の庭園書で、「作庭記」の名称では江戸時代中期に塙保己一の編纂した「群書類従」に収められているそうです。それ以前は「前栽秘抄」と呼ばれ、まとまった作庭書としては世界最古のものと言われています。

 

(「前栽秘抄」:作庭記という題名は江戸時代からで,塙保己一が集輯した「群書類従」に収録(362)されて広く知られるようになったと言われています。最古の写本とされる金沢市の谷村家本(2巻,重要文化財)にも表題はなく、古くは「前栽秘抄(せんざいひしよう)」と呼ばれ、関白藤原頼通の庶子で修理大夫となり,伏見の自邸が名園で知られた橘俊綱(10281094)が、若年より頼通の邸宅高陽院(かやのいん)をはじめ,多くの貴族の作庭を見聞し,かつ自らの体験をもとに、当時の口伝等をまとめた記録より編集したものだそうです。)

 

 

(噴水)

 

その内容は意匠と施工法であるが図は全く無く、すべて文章で、編者や編纂時期については諸説ありますが、橘俊綱であるとする説が定説となっており11世紀後半に成立したものと見られています。最も古い谷庄さんの写本には、奥書に「正応第二(1289)」と書かれているそうです。

 

正応第二は正応2年。弘安の後、永仁の前。正応元年(1288)から正応6年(1292)までの期間。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。)

 

 

「作庭記」の特徴は、当時、王朝の住宅建築様式の土地の在りようにあたって、もっとも重視された四神相応観が庭作りの上でも重要視されており、さらに陰陽五行説に基づいたもので、王朝の住宅建築様式である寝殿造りを前提として説明されています。

 

(兼六園以前の竹澤御殿平面図)

 

内容は、前半において立石の概要に始まり、島・池・河などの様々について論じ、滝を立てる次第、遣水の次第を詳述しています。後半においては立石の口伝に始まり、その禁忌を具体的に書かれ、樹、泉について述べられ、最後に雑部として楼閣に触れています。そのような特徴を持つ「作庭記」は、造園史家の中でも最もよく研究されている作庭書です。

 

橘俊綱:摂政・関白・太政大臣を務めた藤原頼通の次男として生まれますが、頼通の正室・隆姫女王の嫉妬心のために讃岐守・橘俊遠の養子とされ、摂関家の子弟にもかかわらず、修理大夫や尾張守などの地方官を歴任。位階は正四位上にとどまります。造園に造詣が深く、日本最古の庭園書である「作庭記」の著者とされています。巨椋池を一望にする景勝地指月の丘(現在の桃山丘陵の南麓)に造営された伏見山荘は、俊綱自ら造園を行い「風流勝他、水石幽奇也」と賞賛されています。

 

≪金沢の古美術商谷庄さん≫

初代庄平は、加賀八家長大隈守に仕えた武士で、加越能文庫にある谷村家の由緒書によると7代目が庄兵衛で、明治維新後、庄平と改名したそうです。道具屋を始め、明治16年(1883)柳町(現在の本町2丁目)に店を構え、当時、武家よりたくさんの道具が売りに出され、連日の如く競り市が開かれ、多忙を極めたといいます。

 

(谷庄さん)

 

初代は、長州征伐や北越戦争に従軍した武人らしく、身体はたくましく士魂を捨て切れなかった人だと伝えられていたそうです。維新後は商運に恵まれ、店は順調に発展し、柳町から安江町、東別院隣の横安江町へ移ります。2代目庄平の時、昭和2年(1927)の彦三大火に罹災し、現在の十間町は、大和田銀行(現福井銀行)金沢支店が博労町に移るまでいた跡地だそうです。昭和37年(1962)に東京・銀座に東京店を、金沢の店舗は和洋並立の店舗兼住宅として、国登録有形文化財(建造物)に指定されています。

 

(今もある谷庄の茶室は裏千家今日庵の閑雲亭を倣ったものだそうで、襖には旧小松城にあった狩野探幽筆飲中八仙の絵襖が用いられていて、細野燕台(金沢出身の漢学者)が松永安左エ門(電力王)と小林一三(東急創設者)の両茶伯を伴い来訪した時、松永氏がこれを所望したところ、小林翁から窘められて思い止まったという逸話が残っているらしい・・・。)

 

(十間町の谷庄さん)

 

25代目は、大正7年( 191810月創立の(株)金沢美術倶楽部の社長も務め、美術業界の発展にも大きく貢献。茶道隆茗会の代表理事、淡交会石川支部の顧問、大師会、光悦会などの全国的な大茶会の世話人を務めるなど、茶道文化の発展にも尽力されました。当代は6代目谷村庄太郎氏で、平成22年(2010)より代表取締役に就任し、古美術商として、また、茶道文化の発展にご活躍です。

 

谷庄さんは、商売柄とはいえ、その所蔵する名宝は多く、上記「作庭記」の他重要文化財に指定をうける五十嵐道甫作と伝えられる「秋野蒔絵硯箱」が所蔵されているそうです。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢の老舗」本岡三郎監修 昭和466月北国出版社発行 「兼六園全史」

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiu4Zz3oLfeAhVB7mEKHTUECpIQFjAAegQIBxAC&url=http%3A%2F%2Ftanisho.co.jp%2Fhistory%2F&usg=AOvVaw2MfNEfnjO4hc4noit2Qkbh(谷庄さんのHPより)他

2018-10-29 13:53:48

専光寺さんと加賀の千代女②

テーマ:今昔

【本町(旧田丸町)】

専光寺さんの築地塀は5本の筋塀です。この5本筋は定規筋(じょうぎすじ)ともいい最高格を表わすものだそうで、金沢で多く見られるのは3本筋のもので、4本筋のものも幾つかあります。5本筋は京都御所、門跡寺院、東本願寺及び西本願寺などにあり、金沢では、ここ専光寺と東別院、西別院、大谷廟所に見られます。

 

(専光寺の筋塀5本筋)

 

筋塀とは、寺院などに見られる塀に白色の横筋(線)を刻んだもので、仏教建築と共に大陸から伝わり、奈良時代に宮殿や寺院などで始められました。5本筋のもので最も格式のある筋塀は壁面に須柱(すばしら)を並べ、5本筋を入れたものです。須柱とは、築地塀の壁面に一間ごとに並ぶ柱のことです。)

 

≪専光寺の法宝物≫

専光寺さんでは、毎年72526日の「法宝物虫干し御絵解」で、法宝物虫干しの機会に所蔵の文化財を、お参りの前後に、門徒の方や文化財に関心のある方に、ご覧になれるよう取り計らっておられますが、今年は725日に仲間の紹介で拝観させて戴きました。

 

(広間での法宝物虫干しと絵解)

 

前回「専光寺さんと加賀の千代女①」の≪護方山専光寺さん≫で紹介した親鸞上人の真筆「三骨一廟」、存如上人真筆「三帖和讃」長享の一揆の「鶴丸の旗」それから蓮如上人の「御叱りの御書」などが目の前で見ることが出来、穴の開くほど見て来ました。写真撮影は、近くで撮ることは出来ませんが、お聞きすると新聞記事のように遠くから虫干しの雰囲気を伝える程度の写真なら良いというお話でしたので撮らせていただきました。

 

(虫干しで法宝物拝観)

(本堂)

 

≪専光寺の梵鐘≫

第二次世界大戦で戦局が悪化した日本では、武器生産の金属資源の不足から、昭和16年(194191日に施行された「国家動員法」に基づく金属類回収令により梵鐘が供出することになり、金沢でも多くの梵鐘が供出されました。その中で戦争に巻き込まれなかった15の梵鐘があります。専光寺の梵鐘は、一度供出されますが潰されず残ったものです。

 

(鐘楼と梵鐘)

 

(この梵鐘は、富山県高岡の藤田善六作で明治時代の製造です。明治のものは後2口あり、12口は江戸時代の名工作のものです。)

 

≪加賀千代女(尼)≫

千代女(元禄16年(1703)~安永4年(1775)享年73歳)は、俳人。号は草風、法名は素園千代、千代尼などとも呼ばれ、松任の聖興寺には遺品などを納めた遺芳館があります。松任(白山市)の表具師福増屋六兵衛の娘として生まれ、一般庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたといいます。 12歳の頃、奉公した本吉(美川)の北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)から俳諧を学ぶために弟子となり、16歳の頃には女流俳人として頭角をあらわしました。

 

(朝顔イメージ1)

 

17歳の頃、諸国行脚をしていた美濃に各務支考の後を継いだ蘆元坊(ろげんぼう)が地元に来ていると聞き、宿に赴き弟子にさせてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められます。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に蘆元坊に才能を認められ、指導を受けました。その事から名を一気に全国に広めることになります。

 

明治44年(1911)に、城丸花仙が著した「千代尼」には、18歳の享保5年(1720)大衆免大組組地(今の森山小学校)足軽福岡弥八に嫁ぎ、翌年、弥市が誕生、5年後の25歳で、夫を亡くし、その翌年122月に愛児弥市も亡くなり、5月に婚家をでて実家に帰ったとあります。

(未婚だったという説もあります。)

 

(朝顔イメージ2)

 

≪千代女の俳句≫

朝顔 つるべとられて もらい水  

朝顔 つるべとられて もらい水

(にをやに変えたのは35歳ごろとか・・・。)

 

だと、水を汲みに行くのは自力で、は切字でより強く詠嘆したもので、に変わったのは、自分朝顔も同じ生を戴いたもの同士という事から千代の自我が薄れたと云われ、お互い仏様から賜わり水を汲ませて戴くという他力になったと云う説があります。

 

に変わった転機は千代女35歳頃といわれていますが、浄土真宗のお坊さんの西山郷史氏によると、35歳は、祖師親鸞さんはじめ、仏教界における転機になった話を千代女が説教の場で聞いていたから、だったかもしれないからと言っています。(西山郷史)

 

(専光寺のお庭)

 

一方では、真蹟(聖興寺蔵)千代晩年刊行「千代尼句集」には、朝顔の句形で載っているそうです。朝顔と改案した真蹟が見られるのも、句の主眼が朝顔にあることを明確にするための試みだったのでは?朝顔は切字。句の姿とするとという小休止があると、格調高く本格的ですが、朝顔と切ると何(誰)につるべをとられたのか分からない。肝心の情景の輪郭自体があいまいになってしまう。最終的に朝顔の措辞を選んだ背景にはそうした心の経緯があったという解釈もあります。と書かれています。(山根公)

 

当時も超有名な句「朝顔や(に)・・・」には、こんな伝説もあります。その頃、松任は水の便が悪く、深井戸は450軒に一本と数は少なく、隣の井戸が遠く貰い水など出来なったのでは、というので松任の井戸ではない!?という疑問が生じ、井戸は奉公に行った本吉(美川)か?嫁ぎ先の大衆免足軽組地か?幼なじみの綿谷希因の家にあったのだろう?と根拠もない、いいかげんに推測が、何時しか、行ったことも無い江戸にある三田の「薬王寺」というお寺にある井戸が、今も「加賀千代女の井戸」と呼ばれているそうです。

 

(専光寺)

(専光寺の埋骨処)

 

生涯1700句を詠んだと言われる千代女です。代表的な句と言われている句に以下の句も含まれています。何れもよその人が詠んだ句だといわれています。いずれにしても、当時、超有名女性俳人は千代女だけ、女性のデリケートな心情を詠んだ句は、千代女の句になってしまったのかも・・・?

 

「トンボ釣り 今日はどこまで 行ったやら」

「這えば立て 立てば歩めの 親ごごろ」

「起きて見つ  寝て見つ蚊帳の  広さ哉」

 

何とも謎の多い不思議な女性だったのでしょうネ・・・。益々興味が募り、嵌ってしまいそうです。

 

(専光寺の千代尼の時世の句)

 

そして時世は

「月も見て 我はこの世を かしく哉」          

 

参考文献:「妙好人千代尼」西山郷史著 臥龍文庫 2018120日発行。 加賀の千代(女)」研究の第一人者俳文学会員山根公氏の中日新聞記事の引用。 まいどさんの渡辺三弘氏「戦争に巻き込まれず生き残った梵鐘」より

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