1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2018-01-17 19:37:34

本多播磨守暗殺事件と仇討ち⑤最後の仇討ち

テーマ:伝説・伝承

【金沢県・石川県】

“かれらこそ第二の赤穂浪士、いや「本多義士」と称えられてしかるべきだ”という感想を抱く者は、県庁の上層部にも少なくなかったと伝えられています。しかし、御一新の時代では、表向き義勇の武士として誉め称えられず、新しい法典によって裁かれることになります。

 

 (大乗寺総門)

 

それでも、囚われた15人は尻垂坂(兼六坂)通りにある刑獄寮の獄舎に繋がれ、一般の囚人とは違う待遇で特別扱いの未決囚でした。面会は許されないももの、文通や差し入れ品の授受は黙許され、定期的には刑獄寮の庭を散策することも認められていました。

 

 

 

15人にとって死は覚悟の上のことですから、時々取り調べで呼び出され口述書を作成する時と散策の時間以外、獄中で静かに読書をしたり絵を描いたり、歌会や句会を開いたり辞世を考えたりして判決の下るのを待つだけの日々でした。

 

 (大乗寺山門)

 

1年間、獄中で過ごした15人に判決が下ったのは、金沢県が石川県に改め、県庁が石川郡の美川に移つされてから9ヶ月後の明治5年(1872111日でした。

 

判決は、本多弥一以下12人は自裁を仰せつけられ、世襲俸禄のものは子孫に給うべく候というものでした。伝令役で、菅野輔吉邸に駆けつけたあと門外にあった清水金三郎は、禁固10年。島田伴十郎と上田一二三は禁固3年を仰せつけられ、この日、明治5111日は金曜日で、弥一以下12名の切腹は、週明け114日月曜日の午後2時からと定められます。

 

 

  (大乗寺十二義士墓所)

 

12人の遺体は、その日の内に引き渡され、刑獄寮に集まった遺族の中に、盲目の老婦人がいました。その白髪髷の老婦人は芝木喜内の母で、筋張った両手で柩を愛しそうに撫でさすりながら、「ああ、喜内よ、そなたはまことに忠臣や、いや義士や、そなたが仇討ちに加わってくれたからこそ本多家に恩返しが出来た、ご先祖さまにも面目が立ったというものや、それに、そなたが盲目の母に後ろ髪を引かれなかったことが、何よりうれしくてならぬ、早う冥土のお父上のもとにゆき、事の次第を告げなされ・・・・」

 

の言葉に獄吏のほか11人の遺族たちは、寂として声もなく老婆を見つづけた。そして、この日から本多弥一たち12人を誰からともなく、「十二烈士」と呼ぶようになった。と作家中村彰彦氏は、「明治忠臣蔵」でお書きになっています。

 

 

  (本多宗家の墓所)

 

しかし、このほかに烈士と呼ばれる男がいました。その男は115日朝、大乗寺の政均の墓前で十二義士の負けじと追腹を切った元本多家中小将組のひとり竹下卯三郎です、卯三郎は、山辺・井口両名が切腹刑に処せられたころ、弥一を訪れ、同志に加えてほしいと決死の面持ちで訴えたというが、本多家家臣の養子となって日が浅く、どのような心情かよく分からないということら、弥一はその願いを聞き入れなかったという。また、元本多家家臣の諏訪八郎准中尉は、明治4年(1871 1212日自殺したという。原因は本多政均暗殺者の一党と目された石黒圭三郎(後の桂正直)の所在探索を同志から託されたが、不成功に終ったことを恥じたものと見られています。

 

 (上田一二三ほか四基の墓)

 

(大乗寺の本多家墓地の十二義士の墓の傍らに大正三年(1914)八月有志建之、上田一二三、島田十方?(伴十郎)、清水金三郎?ら五基の墓がありますが、一人は墓石に竹下直久(卯三郎)もう一人は諏訪○○が見えます。天気が良くなったら確認に行ってきます。)

 

 

  (大乗寺法堂)

 

藩政期の武士は、義、勇、仁、礼、誠の徳目は名誉を深く重んじる身分に伴う義務で、特に「義」「勇」は、周りに流されずに正義を守る勇気を持つ者こそ真の武士だと言われていました。そして、死すべき場は死し、討つべき場は討つということから、「仇討ち」は武士にとって崇高な理想であり美徳で、成せば義士と呼ばれ称えられました。しかし、明治の新法典では、「仇討ち」殺人罪と定められ、同じ行為でも正反対へ急転していました。

  

  (本多政均)

 

営々と続いてきた武士道の精神を、新しい法典を乗り越えて命を捨てて守った本多家の家臣たちは、御一新の大変革の浪に翻弄されながらも武士道を貫きます。そして、この事件は、日本の武家社会の終焉に当たり武士による"最後の仇討ち"となりました。

 

その後、明治6年(18732月に敵討禁止令が出され、以後、「仇討ち」は御法度となります。

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新聞社 201311月発行他

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2018-01-14 21:32:49

本多播磨守暗殺事件と仇討ち④仇討ち

テーマ:伝説・伝承

【金沢県】

明治4年(18717月、金沢藩は金沢県に変わります。その頃、県庁は長町の長家の屋敷にあり、岡野悌五郎多賀賢三郎70日の禁固刑を経て、県庁の役人小属(判任官12等兵隊の位で言うと軍曹)に任じられていました。

 

 

 

明治4年(1871714日、政府は廃藩置県の詔書を発布します。太政官が金沢藩庁に与えた文面は、

 

御沙汰書

今般判を廃し県を置かれ候については、おって御沙汰候まで大参事以下これまでの通り事務いたすべき事。

 辛年七月

 

これによって、300年の歴史を誇る金沢藩(加賀藩)は地上から消滅し、あらたに金沢県が成立したのです。)

 

 

 

一方、本多家側は、最盛期約300人がつめかけ大焚火を焚いた本多弥一の庭も今は嘘のように、「読書会」と称し集まるものも弥一を入れて15人になっていました。

 

 

 

本多弥一(26歳)本多家家老500石、矢野策平(45歳)近習兼剣道指南50石、西村熊(23歳)近習加用役100石、鏑木勝喜知(31歳)中小将組家老席執筆役、富田聡(21歳)給人組・近習加用役衣服料13俵(父本多家家老300石)舟喜鉄外(31歳)中小将組・扈従役、10俵、浅井弘五郎(24歳)中小将組・近習役10俵、吉見亥三郎(22歳)徒組・小将列、芝木喜内(29歳)徒組・近習手水役、広田嘉三郎(23歳)徒組・手水役、湯口藤九郎(30歳)足軽、藤江松三郎(27歳)足軽、清水金三郎(24歳)徒組・手水役、島田伴十郎(33歳)足軽、上田一二三(35歳)足軽。

 

 

 

「読書会」に指定された書物は、水戸の藤田東湖の「回天詩史」、浅見絅斎の「靖献言遺言」、室鳩巣の「赤穂義人録」などで、特に尊ばれた書物は、室鳩巣の「赤穂義人録」でした。鳩巣は、加賀藩に仕えて儒者で、赤穂義士の討ち入りを絶賛した学者であり、その著「赤穂義人録」は信頼のおける名著でこの時代まで読み継がれていました。

 

読書会は、次第に15人の胸の中では、“これこそ第二の義士たちに、ならねばならない”との思いが燃え上がるようになり、思いを遂げた暁には死に就かねばならないと思うようになります。藤田東湖の著作を輪読したのは、自分たちが遠からず死に就かねばならないことを自分自身に納得させていくためでもありました。

 

 

 

しかし、この読書会にも疑惑の目が集まり出し、"本多弥一らは、飽きもせず復讐を計画する場なのではないか?“という噂が広がり、やむなく読書会も中断しなくてはならなります。

 

 

 

明治4年(18711123日、長町の県庁に岡野悌五郎を討つべく、本多弥一以下鏑木勝喜知、富田聡、吉見亥三郎岡野悌五郎の退庁を待ち受け襲う、応戦中、悌五郎が溝の落ちたところを、一同で刺し殺し、直ちに県庁へ自首しました。同行した清水金三郎は岡野襲撃を見て、直ちに菅野の討手に報告のため加わらなかった。

 

 

 

同日、矢野策平、舟喜鉄外、西村熊、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、清水金三郎7人が小立野与力町の菅野輔吉を自宅で討つ。輔吉は、槍の名手で、応戦するが、前後から斬られて斃れた。一同は首を政均の墓所の方角に向って捧げ、県庁へ自首します。また、輔吉は句読を教授していたので、弟子たちが刃向かってくる場合を予測して人数を多くしたという。

 

 

 

これより先、関西視察に出張した多賀賢三郎を追跡していた芝木喜内、藤江松三郎は長浜で追いつき、1124日、これを刺殺して、彦根県へ自首し金沢に移送されます。

 

 

 

ほか石黒圭三郎ら出国者を追跡した島田伴十郎、上田一二三は、果せぬまま、当初の目的3人を打ち留めたことで満足し、この復讐は終わりました。

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新聞社 201311月発行他

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2018-01-09 21:06:51

本多播磨守暗殺事件と仇討ち③暗殺事件始末

テーマ:伝説・伝承

【金沢藩・金沢県】

山辺は、真っ向から政均の頭を打ち、井口は、がっくりとうなだれた政均の首を引き斬り、返り血を浴びた刺客は止めを刺そうとしたとき、徒歩目付け3人が駆けつけてきて大声で制した。山辺と井口は本意を遂げてその場に座りこみ下知を待ちます。政均は屏風囲いに寝かされ御医者黒川良安の診察をうけ、城内では石川門や河北門を閉ざし一切の出入りを禁じました。一方、藩知事慶寧公は、政均の女婿の長成連を本多家に遣わし、軽挙妄動を慎むよう、一門・老臣に懇諭させます。

 

 

(石川門多聞櫓)

 

夕方には執政前田直信、参政前田内蔵太を遣って弔詞を述べ、嗣子資松(当時6歳)の遺領相続を伝えます。本来、主人が横死したところは、事の委細に関わらず、家名断絶の決まりがあるが、特別に5万石がそのまま資松が相続することになり、本多の家臣らを安堵させ、事を構えさせないための熟慮の処置がとられたことからも、藩知事慶寧公は本多家には気を遣っていたことが窺えます。

 

 

(本多上屋敷跡)

 

翌日には、菅野輔吉、岡野悌五郎、多賀賢三郎、松原乙七郎、岡山茂が連累者として捕われます。斬奸趣意書を書いたと言われる土谷茂助は捕吏が行く前に自刃し、土谷は目的が達成すれば、刺客と同じ死を覚悟していたものと思われます。

 

 

(本多中屋敷跡・版籍奉還後本多宗家屋敷)

 

彼らの取調べは、新政府の警察機関弾正台から大巡察、小巡察が東京から出張してきます。これらの役人あてに市民からの陳情書が出されていました。それらは山辺らの所業を擁護するもので、政均を誹謗する内容でした。

 

一方、本多の家臣らの憎しみは募り、政均の従兄弟にあたる本多弥一(25歳)を代表に140人が連署した嘆願書が藩庁に提出されます。嘆願書には“山辺、井口は主人を暗殺した者であるから取調べした後には身柄をこちらへ下げ渡してほしい”というもので、叶わぬときは“せめて首をはねる役目を本多の家臣にしてほしい”10数回のわたり嘆願するも聞き入れられなかったと言われています。

 

 (本多家周辺図)

 

(本多弥一は、本多家8代安房守政礼(まさつぐ)の3男伊織政醇(まさあつ)を父とし、殺された政均の従兄弟。嘉永2年(1849)政醇(まさあつ)から家督を相続し、本多家の分家で家禄500石。明治維新以降は分家をくだって本多家の家臣の身分で、宗家の家老を勤めています。)

 

一同の刑が定まったのは明治4年(1871214日です。刺客の山辺・井口両人は自刃を命じられ、他菅原輔吉3年間の自宅禁固、多賀賢三郎、岡田茂、岡野悌五郎70日間の自宅禁固に処せられます。

 

前日の13日、藩知事慶寧公が本多弥一に対し"新政府では、いかなる事情でも復讐をしてはならないことは刑典で定められている事からも、あえて行うならば天皇に背くことになり、藩知事も資松も責めを負うことになるので、家臣を懇切に諭すよう“と言われていました。

 

 

(本多宗家の屋敷・版籍奉還以後、前田慶寧公が御住居)

 

しかし、弥一は藩知事慶寧公の説諭に心を動かすことなく、その日、弥一は家臣200人を自宅に集め藩知事より説諭された事を伝えます。そして弥一は“藩知事は職掌柄やむをなくおっしゃったこと、新法典は我々にどの様な罪を与えようと恐れない、先主人の恩顧に報い、無念を晴らすのは武士の本領。武家社会の美徳である。”と述べ、100人の家臣が選ばれ刑獄寮(今の地方裁判所)に乗り込み牢に繋がれている山辺・井口を引きずり出し殺害しようと言うことになり、家臣らが雄叫びを上げたといいます。

 

(刑獄寮跡・今の地方裁判所)

 

ところが、貧民姿で刑獄寮周辺を探っていた家臣が、山辺・井口両人の処刑が終わった事を伝えてきます。集まった家臣たちは"仇討ちは自然消滅だ“と意気消沈しうなだれ去って行きますが、それを見送る本多弥一は、復讐への思いは失ってはいませんでした。

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新聞社 201311月発行他

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。