最近考えたことメモ | 生きる苦しみと希望の記録

生きる苦しみと希望の記録

日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

最近の記録を付ける。

 

今も何人かの身近な人と通話などして、皆いろいろ精神的にも身体的・物質的にも問題を抱えながらやっていること、そうやってなんともしがたい弱さのようなものとあるいは闘い、あるいはそこから逃げて、そうやって生きていってさまざまな経験をして死んでいくのだということが改めて思われた。

 

僕自身も、「ベストな生き方がしたい」とか、「マックス善い生き方がしたい」とか言っていたが、その反面、正直、どこまで行っても「自分」というものは捨てられず、どんな生き方をしても結局のところ煩悩にまみれて死んでいくのだということがひしひしと思われる面がある。

それでもできるだけマシな生き方がしたいと思って、(これもいろいろ問題含みの)医学部志望などをして勉強をしているが、その中でもいろいろペースが乱れるようなことも起こるし、その方向性自体が疑わしくなることも多々ある。

ブログを書いているときまで自己弁護しなくてはならない気持ちになって、「これだけ勉強した」とか、「これだけがんばっている」みたいなことを書いたり、「これだけ反省してます」「これだけ謙虚になってます」みたいなアピールをし始めたりする。ある意味、なにがしたいのかわからない話でもある。

 

先日も、少々激しい苦悩に襲われる局面があった。

そのとき、僕が生きる意味を求めていたのは、もともとは苦しみへの対応の側面が強かったということが思われた。つまり、直接楽しいことで人生を肯定できないのだから、意味を見出すことによって肯定したい、ということで、生きる意味を求めていたわけである。

つまり、もともとは、僕の生きる意味の探究は、苦しみを耐えるに値するものとして解釈するための試みだったのだと言える。

その点、先日の神秘体験による「答え」はそれに値するか、というと、するようなしないような、という感じがする。

 

それは、ある意味でその「苦悩の意味」の名に値する。究極目的が存在そのもののうちにあるならば、苦悩も苦悩そのままにして救われ、肯定される。基本的には、それをバネにして価値のある行為をすることに意味を見出さなくてはならないというわけではない。

苦悩が直接肯定されるわけではない。しかし、苦悩は苦悩そのままにして肯定される。苦悩そのものに付随するものとして存在の意味としての肯定があるのだから、それはただ虚しい否定的なことであるわけではないのである。

 

だが、先日その苦しみに襲われているときは、そのことを完全に腑に落ちる形で信じて、「もはやそれは問わない」というほどではまったくなかった。やはり、心の中では「こんな苦悩になんの意味があるのか」「あるとしたらどんな意味があるのか」というあたりを、それをうっすらと感じているような、多少なり実感があるような中で、なんとか腑に落ちるような、納得のいくような形で言語化し、自分にはっきりと言い聞かせようとしてもがいていた。

この根拠はもちろん論理で導くものではなく、すでにある、感じるものである。だがそのときは、このこと、すでにうっすらと感じているようなこの「意味」を再理解し、論理や理性によって表現しなおし、それを確認し、確信することによって、耐えるための足場を確保しようとして、なんとかそれを言語化しようともがいていた。

 

またその際、たまたま、今日の午後に自主的な読書会で読むことになっているV・フランクルの『死と愛』の「苦悩の意味」のところを再読したら、結構励まされた。避けられない苦悩に耐えることに意味を見出すような部分である。

フランクルとしては、おそらくは、「意味のある苦悩」の条件として、その苦悩が「欲求不満の苦しみではなく、価値との緊張関係における苦悩であること」や、「ただ苦悩するのではなく、正しく苦悩すること」を考えているようにも思われる。

これはフランクル思想全体を通して言えることだが、フランクルは意味を無条件に与えられるものとは考えていない面が大きい。それはどこまでも意味のある「行為」、それも道徳的な感じを帯びた「正しい行為」を条件にして満たされるものである。その「正しさ」は、基準がわれわれにわかるわけではないものの、どこまでも客観的に存在するものだということになる。

 

確かに、苦しみの中で生を肯定する際にも、少なくとも僕にとっては、「ただ無条件に肯定されている」というのはもちろんそれ以上に大事であるにせよ、同時に「その苦しみを意味のあるものとして形成するためにわれわれにできることがある」という考え(「考え」と言うより、そうである「こと」)は、大きな励ましになるようにも思われる。

それは「存在することへの信頼」のようなものの上に成立する、「善い生に向けた志向」であり、それが可能であるということへの信頼と、それを実現しようとすること自体が、そうしようとする主体としてのわれわれ自身に励ましを与えるのである。

 

そういえば昨日、一月以上前に申し込んだがためらってずっと放置していた、国連のある団体への寄付(少額だが)を、ついに振り込んだ。

それは、その団体から来ていたニュースレターを見て、そこに書いてあった「この苦しみの終わらない世界で、あなたの生きた証が必ず力になります」という文句に涙が出そうになったというのも手伝っている。

なぜか僕の場合、具体的なストーリーよりもこういう抽象化された理念のような言葉のほうが胸を打つところがある。ある意味、具体的なストーリーよりもむしろこういう抽象的な言葉のほうに僕自身の具体的な経験が折りたたまれていて、それに影響を受けやすいようになっているのかもしれない。

 

また、その冊子には「遺贈」の勧めのような文脈の中で、エンディングノート(終活用の記録)の資料請求もおすすめされていた。うがった見方をすれば、「死に面してまで自己犠牲を要求するのか」という感じにもなるかもしれないが、なんにせよ、今から「善い死に方」を意識しておくのも悪くないような気がするので、エンディングノートとかも検討したい。

 

いい生き方をしようがしまいが平等だという意識もあるのだが、こうやってたまたま(物質的に)恵まれた境遇に生きているのだから、なにか世界に「返していく」ようなことはすべきでもある気もする。

 

関係ないが、近ごろ、「死にたい」という言葉が頭を自然に流れるのと同じように、ある人に関して「愛している」という感じの言葉が頭を自然に流れるということがあった。

とはいえ、近ごろ気遣ってもらえてうれしかったというのがあったというのもあり、どうせ冷たくされたら否定したくなるのだろうから、「死にたい」と同様に「気のせい」であり、そのときの自分との関係において感じているだけのことでもあるだろう。

さらに書き始めたが、やたら恥ずかしくなってきたのでやめておく。

 

まあとりあえず、こんな日記を書いて遊んでいないで、勉強でもしたほうがよいだろう。