以前から私のブログをご覧の皆様なら、私のルイザ・ピッカレータびいきをご存じかと思われますが、
今日は以前書いたブログの中から、分かりやすいたとえを引っ張って来ました。
私がよく使う
無になりたい=心(自我)の死を
短い言葉で表現してくれています。
人は一度死ななければ、
神の元では生きられない
私はこれを堅く信じています。
スピリチュアルでは自分を生かす方法を教えるでしょうけど、私は自我に死ぬことの大切さを語り続けたいと思います。
私は昔、心のどん底にあったとき、一度心において死にました。
でも、神様を信じていた私は
そこから新しいいのちをいただきました。
でもそれは表面的な死でしかなかったので、イエズス様が十字架の死に至るまで、何度も霊的に死を味わわれたように、本当の死に至るまで、その死は何度も襲ってきます。
でも、その表面的な死がなかったら
畑に例えるなら
固い土に最初の鍬を入れる作業がなかったら、畑は作れません。
その後に何度も固い土を掘り起こして柔らかくし、良い土を作らないと良い作物は育たないように
心の畑に悔悛という最初の一撃がなければ
本当の意味において良い魂は育たないと思うのです。
そして、この悔悛と同時に自分を手放す(自我の死)が起こります。
そして少しずつ、神様にすべてを委ねることを学んでいきます。表面的なことを言っているのではありません。心の奥底、魂の起源のことです。
自我(自分)を手放して、何も考えず、神様の指示通りに動くロボットみたいになりたいと言っているのでもありません。
心=自我=魂の死について、分かりやすく説明している文を見つけたのでご紹介します(*‘ω‘ *)♡
死は、自分を無条件にことごとく、大慈悲である神に譲り渡すことです。それによって私たちは無になって消滅するのではなく、神の大きな愛の海の中で泳ぐ魚のようになるのです。
聖母文庫 愛と永遠
ペトロ・ネメシュギより
そして、魂は自分の死を悲しむどころか喜ぶようになります 。自分を窒息させていたのは、自我であること
に気づくからです。
それからこれは個人差があるかもしれませんが、常識では考えられない不思議な感覚が起こります。
自分の頭がおかしくなったと思うことがしばしばあります(苦笑)
それを表現することが出来ないので、それについては黙ります。
神様が私の魂の中に起こした炎は消えるどころか大きくなるばかりです。
聖人が愛の炎で身を焦がしたように、私も霊的なこの炎に焼きつくされて、人間の姿は保っていても、純粋な霊的な人になりたいです。
自分が何色になりたいかとしたら透明になりたいです。
朝日に照らされ輝く朝露のような清々しい透明。
地上の宝石、夜空に輝く星ではなく
水のような透明で変幻自在な魂になりたいです。
おこがましいですが、マリア様を飾る美しい花々や金糸銀糸、宝石のちりばめられたお召し物の一部ではなくて、マリア様を形作っている組織の一部になりたいです。
生きていると楽なことばかりではなくて、その重圧に押し潰されそうになることが何度もあります。
心を清くいきることなど不可能なことかもしれませんが、人間には出来ないと限界をおくのもしゃくにさわるので、あえて出来ないという限界はおきません。
その中で可能な限り清くなるとこが目標です.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.
神の御旨が地上に行われますように。フィアット!
皆さんに神様の祝福がありますように.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.