群青色の空 。 。 。





あの3月11日の大震災当時、ひとり職場の公民館に勤務していた。

あの日は公民館主催の味噌作り教室開催日。

教室が終わって参加者が帰り、コーヒーで一息ついたのち、汚れの残っている大鍋を洗っていた。



長い異常な揺れの後に、戦争映画の空襲警報と同じ音のサイレンがけたたましく鳴り続け、防災無線が狂ったように「大津波警報発令!大津波警報発令!」と叫び続けた。



そばの病院の入院患者さん全員が一時的に避難して来たり、炊き出しに使うだろうとあわてて大鍋を返しに行ったり、避難してくるかもしれない人のために米を確保したり・・・

張りつめて動いていた私は、いつ警報やサイレンが止まったか覚えていない。

寒くて音が無くて心細い夜を迎え ・ ・ ・



それから4日後、併設の体育館が遺体安置所となった。



その日、宮古の親戚に物資を届けに来たという若者が公民館に立ち寄りました。

彼は盛岡駅で知らない方から、避難所へと食料を預かったそうです。

避難所には届けてきたが弁当をひとつ渡しそびれてきたので避難者がいたらあげたいということでした。

県警の検視官の方々が泊まっているだけだと伝えたら、バスの時間になるからと、弁当を食べてと私に置いて帰って行きました。



災害発生から公民館に泊まり込んでいたけれど・・・

食物に困っていない私のところに、どうしてお弁当が届いたのだろう?



何度も何度も考えました。



ふと思い当たったのがご遺体が運び込まれたこと。



ああ、食べたい人がいたんだ・・・



勝手には入られないので、

事務室の隣の部屋から警察の皆さんの寝息が聞こえたころ、

そっと2階のギャラリーの戸を開け、お弁当を広げて一晩供えました。

まだ夜の明けぬうちにそっと下げて、冷たいご飯を、卵焼きを、

焼いた鮭やホウレンソウのおひたしを、涙とともに飲みこみました。

 

「供えたものを食べるのは家族なんだよ。家族が迎えに来るまで私でいいよね?」と心の中で話しかけながら。



頭を冷やそうと窓を開けて冷たい空気を吸い込みました。



その時の 空の色が 群青色に見えました。



深海から明るい海へ移る途中の色、群青



夜と朝の間の色、 群青



なぜだかわかりませんが、

群青色の空の中に亡くなられた皆さんの心があるような気がします。。


朝方早く目が覚めたときに見上げた空に、



夕方足元が見えなくなる頃作業場に鍵を掛けながら仰ぐ空に・・・





忘れないよ・・・  忘れたくないよ・・・





これが屋号を群青にしたもうひとつの理由。。。