加賀藩 | 亀の勉強部屋

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子どもの頃病気で右耳が聞こえなくなりました。片耳だけで頑張って生きてきました。

今回は加賀藩歴代藩主を書きました。

 初代 前田利家

 利家公は14歳の時に織田信長に仕え、生涯四十数回の戦いに参加、数々の武勲を上げていた。中でも初陣の海沖の戦い(1551)、桶狭間の戦い、長篠の戦い、賤ヶ岳の戦いや末森城(現石川県押水町)の激戦(1584)は有名である。また、槍の又左と異名を取るほど槍の名手であったという。

 天正13年(1585)9月、豊臣秀吉から羽柴筑前守の号を譲られている。秀吉の天下統一の大業は、大名利家に負おうところが多大であったといわれる。

 大名としては、元亀元年(1570)近江国長浜で一万石を領したのに始まり、越前府中(福井県武生市)で3万3千石余、次いで能登一国を領有し、加賀国石川河北両郡を秀吉から増封され天正11年(1583)4月25日(新暦6月14日)に金沢城(当時は尾山城)に入城した。利家公が金沢入城と共に加賀藩の時代が始まったのである。この日を記念して毎年6月14日には封国際と百万石祭りが盛大に行われている。

 慶長4年(1599)大阪城で逝去。享年62歳。金沢の尾山神社は公を祭神として祀っている。

 2代 前田利長 1562~1612

利家の子。母は高畠左京大夫道吉の娘。幼名は犬千代。始めは利勝といった。織田信長、豊臣秀吉に仕え慶長4(1599)年家を継ぐ。関ヶ原の戦いで東軍に属し、加賀、能登、越中の3国を与えられた。

 3代 前田利常 1593‐1658(文禄2‐万治1)
加賀藩3代藩主。前田利家の四男。1601年(慶長6)兄の2代利長の嗣子となり,利光と称し,徳川秀忠の娘珠姫と結婚。05年家督相続,筑前守,26年(寛永3)従三位権中納言となり,29年肥前守,利常に改める。39年隠居して加賀国小松城(20万石)にいたが,45年(正保2)4代光高が死去して5代綱紀を後見した。その間に改作法の施行を親裁して成功させた。法号微妙院。

 4代 前田光高

3代利常公の嫡男で元和元年(1615)金沢で生まれる。母は将軍秀忠の娘珠姫(天徳院)、夫人には3代将軍家光の○(水戸光圀の姉)を迎えたため徳川家とは至極円満な間柄となった。

公は非常に聡明な若君で学問を好み、江戸の儒家林羅山を師とし、和歌は烏丸光広について研鑽を積んだ。数々の落書きが残されている。

寛永6年(1659)4代藩主となったが、わずか6年目の正保2年(1645)に31歳の若さで逝去されたので○にとっても大きな痛惜であった。

 5代 前田綱紀  1643~1724

農政に力を致し、学問・武芸を奨励。「庶物類纂」などを編纂させ、尊径閣文庫の基を築いた。

 

 6代 前田吉徳

護国院。元禄5年(1690)5代綱紀公の4男として江戸に生まれる。5代将軍綱吉の一字をもらい吉治、後に吉徳と改めた。

 公は資性温良、享保の西国飢饉には8万両を贈ってこれを助け、朝廷の荒廃を嘆いてしばしば金品を贈っている。公の在世中は元禄享保の文化爛熟期であり、一般に贅沢の気風が流れ、その反面家臣の窮七藩財政の逼迫など、いわゆる台所の苦しさが加わりつつあった。そこで藩政の一新で財政の立て直しを計るため、身分が低いが財政的手腕のある大槻伝蔵を起用し、一時大いに実効をあげたがあまりに急激な施政のため他の老臣たちから反感を被って、いわゆる加賀騒動の原因となったと言われている。延享2年(1745)没した。享年56歳。

 

 7代 前田宗辰 725-1747* 
 前田吉徳長男延享2年加賀金沢藩主前田家7代となったが,翌年12月8日に急死大槻伝蔵一派に毒殺されたともつたわるが(加賀騒動)うたがわしい。22歳初名は利勝。通称は又左衛門

 8代 前田重熈

6代吉徳公の2男、享保14年(1729)江戸で生まれる。

 延享4年(1747)から宝暦3年(1753)までの6年間在位し、江戸で没した。享年25歳。

 9代 前田重靖 1735-1753 
 享保20年11月8日生まれ。前田吉徳の5男。兄重煕の養子となり,宝暦3年加賀金沢藩主前田家9代。4ヵ月後の同年9月29日急死。19歳。初名は利見。

 

 10代 前田重教

 6代吉徳公の第7男として寛保元年(1741)から明和8年(1771)まで在位し、天明6年(1786)46歳で没した。

 6代吉徳公以後、藩主の交替は7・8・9・10代と矢継ぎばやに行われ、そのため藩の財政は窮迫(きゅうはく)を告げた。その救済策として銀札という紙幣を発行したが、極度のインフレが生じ、各所で一揆がおこり、藩内は騒然とした、銀札は1年目で発行を停止したが、藩の財政に尾を引く結果となった。

 宝暦9年(1759)には大火が起き(宝暦の大火)金沢市街は2日間燃え続け、その9割ほどが灰燼(かいじん)に帰すという惨事があった。さらに天明の大飢饉に見舞われるなど、事件が続発したのであった。

 11代 前田治脩

大梁院。6代吉徳公の第10男として延享2年(1745)金沢で生まれる。明和8年(1771)に藩主となる。7代から10代まで5人の藩主は、6代吉徳公の実子である。まさか10男が藩主となるとはだれも予想しなかったが、10代重教公には跡嗣がなかったので、越中の名刹勝興寺の住職に入られたのを呼び戻され還俗して第11代目を嗣いだのである。

 治脩公は学問の振興に力を尽くし、学者家老の奥村尚寛を学校総奉行に命じ、藩の学校を創立させた。

 学問の明倫堂、武芸の経武館の両校で初代明倫堂学頭には新井白○が任じられた。また、小松にも集義堂、衆道館の二校を開校し、藩臣の子弟は入学するためにきそって勉学に励んだのである。

 なお7代から11代まで短期間に藩主の交替が行われたのでその儀式の費用が藩財政を圧迫し、ひいては藩全体に影響したことはいなめない。享年○2年(1802)に位を譲り文化7年(1810)に没した。享年66歳。

 12代 前田斉広

10代重教(しげみち)公の第二男として天明2年(1782)金沢で生まれる。

始めは利厚といったが、将軍家斉の一字をもらい斉広と改めた。享和2年(1802)から文政5年(1822)まで在位し文政7年の没した。享年43歳。

斉広公は時勢を深く洞察し洋学の移入を急務と考え蘭医宇田川玄真をはじめ、本多利明、伊能忠敬らの学者を招き藩士に教えたので黒川良安、西村忠沖、遠藤高璟らの科学者や富田景周、津田鳳卿、奥村宗実らの学者が輩出した。

兼六園が完成したのも公の事績の一つである。竹沢御殿という広大な屋敷を造営し、そこに時鐘を置き人々に正しい時刻を知らせた。「兼六園」という名称は白河樂翁(松平定信)が命名したもので宏大・幽遂・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ねることをいう。—野田山前田家墓地より

 

 

 13代 前田斎泰

御敬公。12代斉広の長男として文化8年(1811)金沢で生まれる。文政5年(1822)から慶応2年(1866)まで在位し、明治17年(1884)74歳で没した。

公の治世約40年間は、新日本誕生の激動期であった。加賀藩においても藩論沸騰し勤王佐幕に右往左往せざるを得ない状況で、外敵侵入に備え海岸防のはか衛を厳重にし、七尾に軍艦所を創設したりした。また藩内では銭谷五兵衛河北潟埋め立事件、羽織党事件、武田耕雲斎事件、元治甲子の変や天保、安政の大飢饉など大事件が続発したが、穏健な処理につとめたのである。また、市川米庵を招いて書を学び大成され、能楽を奨励し自らも能の名手として知られる文化人であった。

兼六園の重要文化財成巽閣は、斉泰公が母堂真龍院の隠居所として文久3年(1863)に造営したものである。 ー野田山前田家墓地より

 14代 前田慶寧

13代斉泰公の長男として天保元年(1830)江戸に生まれる。慶應2年(1866)藩主に任ぜられたが2年後に明治維新となったので公は最後の藩主となる。明治2年(1869)版籍奉還と同時に初代金沢藩知事に任ぜられたが、同4年(1871)には廃藩となり、東京に移住したのである。まことあわただしい時勢であった。

慶寧公の在位はわずか2年であったが、卯辰山開拓という大土木工事を興し、病院慈善殖産や娯楽施設まで備えた一大社会施設を新設している。これは公が福沢諭吉の「西洋事情」を読んで啓発され、社会福祉事業の充実の期するために行ったものである。

元治甲子の変では、父斉泰公の方針に反して勤王派であったが、事志とちがい松平大弐らが責任をとって加賀藩勤王派は壊滅した。このため明治維新以来長い期間薩長の下風に立たされたのであった。明治7年(1874)熱海で没した。享年45歳。ー野田山前田家墓地より