にわか作りの控室は、これまたにわか仕立てのステージの脇から後ろにかけて並べられたイベント用の屋外テントで、暑さの衰えない8月下旬の午後の中、ステージから演奏の音とともに溜まった熱気も流れてくる。
よしずを立て掛けて西日を避け、時折り通り抜ける蛍野川からの風のほか、1台だけ置かれた屋外用のエアコンが一生懸命太いダクトを回して冷気を放っているが、効果は気持ち程度だ。隅に置かれた蚊取り線香の匂いがたまに混じって流れてくる。
テントの中は地べたのままで、着替えのための簡易テントがいくつか置かれ、“飲食物の放置禁止”や“荷物は自己管理”などと書かれた紙があちこちに貼られている。
折り畳み式の細長い机が並べられ、出演グループが順次来て適当に腰を据えると、荷物を置いてメイクをしたり遊びに来た友人らと雑談に興じている。
そうした小さな集団がそこここにできていてステージに負けず賑やかだ。パイプイスも用意されているが、キャンプ用のイスを持参してゆったりくつろぐ猛者もいる。
到着したシュウジが中を見回すと、他の群れから離れてぽつんとパイプイスに座り、テーブルに置いた自分の鞄に向かって所在なさげにギターをいじっているナカジがいた。テントの梁に掛けた紺のサマージャケットが心細げに揺れている。
足音を忍ばせて近寄り、「ほれ!」と右の耳を向けた。耳の縁に黒い彫刻が入ったシルバーの幅広いリングが光っている。
「びっくりした。おい、ピアスかよ!」
いきなりの大声と振り向きざまのドアップで大きな声が出てしまった。
「いやいやいや、穴は開けなくて嵌めるだけなの。イヤーカフっていうんだ。格好いいだろぉ」
風呂敷に包んだカホンと紙袋に入れたその他一式を足元に置き、イスを引いて来て腰を降ろした。満面の笑顔でかなり嬉しそうだ。ほどなく、遅れて着いたツッタカが2人を見つけてやって来た。
「あっちーなー、チャリだとグリルだよ」
荷物を置いた机に腰を下ろして、赤らんで汗だらけの顔を持って来たうちわでパタパタ扇いでいる。
「あらら、最近の補聴器はおっしゃれだなー」
2人の様子から、シュウジの耳を覗き込んで言った。
「ち、がーうよ。イ、ヤ、ア、カ、フ! お前なら知ってると思ったけどな」
「って、冗談だよ。名前までは知らないけど、モノは知ってたよ。いよいよシュウジも目覚めてきたか」
「へへへ、倅がくれたんさ。で、ついでに散髪に行って耳まできれいにしてもらっちゃった」
「おぉ、竜太郎君、元気なの? こっちに戻ったの?」
ナカジが顔をほころばせて訊いた。関西にいるところまでは聞いてたけど、その後のことはシュウジも話してなかったし、ナカジたちも訊かなかった。
「いやいや、盆に帰省しただけ。ほんと、墓参りだけのとんぼ返り。ひょっこり帰ってきてさ、いきなりくれたんだ」
「へえ、竜太郎君て、アクセサリーとかつけるタイプだったの」
ツッタカが訊いた。シュウジの息子については話に聞くだけだったけど、そういう印象はなかったし、そもそも親父がそういうものとは無縁だ。シュウジは笑顔のまま首をすくめて横に振った。
「全然。珍しく、向こうからお盆に帰るって連絡がきてさ、わりと明るい顔で帰ってきたなって思ってたら、夕飯の後おもむろに出してきたんだ」
「へー。何かいい感じみたいでよかったじゃないか」
詳細は分からないが、良さそうな方向に進んでいるようだ。何よりシュウジの表情がひときわ明るい。
「それがさ、この前のライブの影響なんだな」
「へー」×2。
「万里子がさ、俺がいない時にたまたまこの前のCD‐Rを見つけて観ちゃったんだよ。で、家がこんな状態なのに何やってるのって、すごい怒っちゃってさ。まぁ、内緒にしてたわけじゃないけど、あんまり話してもなかったんだ」
な、分かるだろうっていう目で見てくる。
「でもカホンとか作って持ってるんだから、全く知らなかったわけでもないだろう。家で練習もしてたんだろう?」
秘密にできる方が不思議だよ、とツッタカが言った。
「だよなぁ。バンドを始めるときにも話したって言ってたじゃん」
ナカジも同感だ。バンド活動として初めて待ち合わせたドトールでの会話を思い出して言った。
「普段は押し入れにしまってるから目に入らないんだよ。身近にこういうことをやってた人もいなかったから、特にライブなんて想像もつかないんだ。それでちょっと揉めたんだけど。で、万里子のやつ、そのCD‐Rを息子に送り付けてたんだわ」
「ふーん。まぁ、何も知らずに見たんじゃ多少は驚くのかもな」
ツッタカが言った。合わせてはいるけど共感は薄い。いろんな意味で理解し切れないのかもしれない。
「ツグミちゃんも凄かったからな。俺の娘もあれを見て“爆裂2丁目”って騒いでたよ」
それから家族の自分を見る目が少し変わった気もするが、ナカジはあまり考えないようにしている。
「竜太郎も同じさ。見てみたら親父がでてきてあのライブだろう。バンドを始めたのはなんとなく知ってたらしいけど詳しくは知らないからさ、親父は箱を叩きながら歌ってるわ、下手なくせに何曲もやるわで、万里子と同じ、自分たちがどん底の中で暮らしてるのに親父は何を暢気にやってるんだって腹が立ったんだって」
「さすが親子は遠慮がないなぁ」
ナカジとツッタカは苦笑するしかない。ま、それなりに上手くはなってるんだけどね。
「だけど、ツグミちゃんに衝撃を受けて、何度か見直しているうちに、これはこれでいいんだって思えてきたんだって」
「へー」×2。
「“何でもありなんだ”って思えたら、ふいに、失敗もありなんだって思えて、そうしたら後悔っていつまでも抱えてなくていいし、悲壮感も取り外せるんだって腑に落ちたんだって。
結果もプロセスもその時その時に最善を目指して、やれるだけやったんだから、それでいいんだって思えたら何か区切りがついて、無駄な力が抜けて心がすごく軽くなったんだって」
「へー、よく分かんないけどすごいな。そんなに深い意味があったんだ。それだけ俺たちがよかったってこと? それともツグミちゃんかな」
ツッタカは少しいぶかったが、ナカジが笑い飛ばした。
「いい方に転んでるんだから、俺たちもよかったんだよ」
「ふーん。まぁ、ロックな生き方しかできないから、しょうがねぇなぁ」
どこまで納得したのか、ツッタカが軽くポーズを付けて髪をかき上げながら誰にともなく呟いた。「人生やったもん勝ちだもんなぁ。結局、笑ってるやつが一番強い気がするよ」。
「そうなると万里子さんも喜んでるんじゃない?」
ナカジが訊いた。
「うん、まぁな」
清々しい笑顔でシュウジが答えた。
自分を呼ぶ声がしたので目を向けると、加代子がテントのとば口に立っていた。手招きしたが入って来ないのでナカジが席を立った。
「どうした、入ってくればいいのに」
思いがけない訪問でちょっと嬉しい。
「ちょっと様子見に来ただけだから。どう、時間通りなの?」
奥を覗いて、どうもお世話になりますと、ツッタカとシュウジに会釈する。加代子は控室の雑多な雰囲気に引いてるようだった。
「特に何も言われてないし、予定通りだよ」
「そう。じゃ、大丈夫ね。保奈美と瑠奈も時間に合わせて観に来るって」
「あぁ、そうかい、うんうん。そうか、そうか」
誘っても曖昧に流されていたので思わずにやけた。予定では4時30分スタートだ。暑い日差しが残る時間なのに。いいとこ見せなきゃだ。
「あの女の人も出るの?」
「え、ああ、鐘楼美すずさんね。あの人は職員だから出ないよ。スタッフの中にいなければ店じゃない」
「そうなの、保奈美が残念がるわね。じゃ、もう行くわ。これから申し込みに行って来るの。これ、やることにしたから」
手にしていたダンススクールのチラシをナカジに見せて言った。「ゆくゆくは『コーラスライン』よ」。
なぜか勝ち誇った顔をしている。ナカジは反応に詰まったが加代子はそれに頓着することなく「じゃあね、お父さんたちの時間までには戻るから」と言い残して行ってしまった。
コーラスラインって…… 背の低い加代子の、年齢相応の少しずんぐりとした後ろ姿を見送っていたら、遠い昔に観た映画のラストシーンがよみがえった。
ゴールドのハイレグのあれかぁ! てかジャズダンスって…… 今までそんな気振り全くなかったのに。あいつも俺たちに感化されたクチか……。
「ふふ。まぁ、ロックな生きざまだから仕方ないか」
シュウジとツッタカのところに戻りながら独り言ちた。でも、平和のためには、黙っているに限る。