上西さんの業績を語る上で欠かすことができないのは、
前ディズニーパークス会長(2010~2016)のトム・スタッグスさんとの蜜月関係だ。

2016年4月、スタッグスさんは急にディズニーをクビになった。

アイガー会長が上海ディズニーランドなどアジア進出に前のめり過ぎたスタッグスさんの経営拡張路線に急に「待った」をかけたのだ。

1990年にモルガンスタンレー証券からディズニーにヘッドハンティング入社したスタッグスさんは、戦略計画マネージャーから、1995年に戦略計画・開発部門の上級副社長に昇進。 
1998年に執行副社長兼最高執行責任者、
2000年1月に上級執行副社長兼CFO(財務執行専務)になった。
CFOとして、スタッグスさんは2006年にピクサーを74億ドルで購入、
次いでマーベル・エンターテインメントを買収した。
アイガー会長はその功績で、スタッグスさんを後継者の地位にすえたのだ。

本物のディズニー・プリンスとなったスタッグスさんがディズニーシー10周年記念イベントで来日。

ミラコスタに宿泊し、大きな衝撃を経験する。


ダマーロさんもいっしょに来てますね。

もともと金融の専門家だったスタッグスさんは世界中のディズニーパークが赤字を出し続けていた当時の現状に真剣に悩んでいた。
入場者が減り、赤字になり、人員整理や経費削減の悪循環で、みんな働く気がなくなっていた。

しかし、オリエンタルランドは開業以来、増益増収を続けている。

その秘密は何か?
スタッグスさんが発見したのは上西改革によるキャスト・現場優先・「いい人投票」のシステムだった。
2013年に舞浜アンフィニシアターで初開催されたD23イベントで、
スタッグスさんはオリエンタルランドの現地現場主義の人事システムを手放しで賞賛した。

そして「われわれディズニー・カンパニーもオリエンタルランド方式を積極的に学びたい」とも公言した。

東京ディズニーランドの開園当初は、ディズニー社も初めて米国外にテーマパークをつくるということで慎重になっていたため、ディズニー社の考え通りにやるように言われていたと思います。
しかし、お互い人間同士ですから、コミュニケーションを取っていく中で、こちらのスタッフもだんだん意見を言うようになり、それが少しずつ認められ、いまでは対等に意見交換ができるようになりました。
逆に、こちらの良いものを向こうに導入するというような関係になってます。
加賀見も「昔は先生と生徒の関係だったが、いまでは仲の良い兄弟だ」とよく言っていますが、東京ディズニーランドや東京ディズニーシーは、アメリカからも高い評価を得ており、私たちはそれを自負しています。

私たちはディズニー社とさまざまな意見を交換してパークをつくり上げていますが、ソフトだけでなくハード面でも、彼らは東京ディズニーリゾートに理想形を求めています。
これは大きな転換点となった。
スタッグスさんは社内で「日本びいき過ぎる」と不満が出るほど、オリエンタルランドに対して低姿勢に相対した。
それまでアメリカのディズニー・カンパニーとキャスト労働組合はストライキを構えるなど、鮮烈な対立関係だった。
そこにオリエンタルランド方式が導入され、キャスト・メンバーの現場リーダー育成プログラムが機能し、今日にみるような「いい人たちのディズニー」がアメリカでも実現したのだ。
上西社長とスタッグス会長の蜜月関係は「世界で初めて」という2つの巨大プロジェクト、
実物大の「美女と野獣の城」と「アレンデール城」建設の容認に結実した。
この2つの城の建設に関わる契約書には、
トム・スタッグス会長の署名がくっきり記されている。


本来なら、ディズニー・カンパニーが土地が狭いオリエンタルランドに「世界初の実物大の城」建設を2つも譲歩する理由はなかった。
実際、ディズニー側との意見交換の場では「東京ディズニー・リゾートのどこにそんな空き地があるんですか」という痛い質問も出た。
しかし、ここで上西社長は懸命に粘った。

「オリエンタルランド本社は新浦安のビルに移転した。旧本社跡地を建設現場にしてもいい」


このように、建設現場予定地の計画もないまま、
トム・スタッグス会長はオリエンタルランドに実物大の2つの城にお任せ建設許可を出して署名したのだ。

スタッグスさんは結局、アイガー会長の後継者にはなれなかった。

しかし、彼の署名はまだ生き続けていて、
6月に社長に就任する吉田謙次常務の下、アレンデール城の建設がすすんでいる。

アレンデール城が完成したら、上西さんは改めてスタッグスさんのことを思い出すだろう。

二人の夢が一つになった。

スタッグスさん、ありがとう。