ジル・サンダーさんの本名はハイデマリー・イリーネ・ザンダー(ドイツ語: Heidemarie Jiline Sander, 1943年11月27日 - )、ジル・ザンダー(Jil Sander)は英語読みの通称。


ドイツ出身で、デンマーク国境に近いシュレスウイッヒ・ホルシュタイン州のヴェッセルビューレン町に生まれ、ハンブルクの服飾専門学校を卒業後、1963年にUCLA(カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)に留学。

この時期がたまたまアメリカの黄金期だった。
63年3月、ザ・ビーチボーイズが名曲「サーフィンUSA」をリリース。


翌64年2月はビートルズが「エド・サリヴァン・ショー」に出演、アメリカで大旋風を巻き起こした。


UCLAはまさにポップカルチャーの震源地だったのだ。
この当時、ビートルズはCHANELの特製ジャケットを着て、アメリカ人に衝撃を与えた。


私の観察で付け加えられるのは、彼女は女性で留学生だったから、同世代のアメリカの学生が直面したベトナム戦争の徴兵と反戦運動・ドロップアウトから一線を区切られた幸運があったと思う。
UCLA卒業後、彼女はファッション関係のジャーナリストになり、父親の死亡でハンブルクにもどり、1968年に小さなブティックを開店した。
彼女を知るロンドンやニューヨークの小売業者たちが彼女の服を買い付け、1973年には「ジル・サンダー」という商号でブランドを創立。


彼女が初期に成功した理由が「ドイツ帰国」にあったのは偶然だ。
ドイツの化学企業Hoechstが高級感のあるポリエステル・トレヴィラ生地を大量生産していたので、彼女は目ざとくウール生地の高品質な代替品としてファッションに大胆に採り入れた。

それは初期ユニクロがフリース生地で大成功したサクセスストーリーに似ている。

1985年にミラノに本拠を移動、ミラノ・コレクションで大成功をおさめ、フランクフルト証券取引所上場を果たす。


しばらくすると、彼女はPRADA総帥パトリッツィオ・ベルテッリ(ミウッチャ・プラダの夫)に認められ、新設したプレタポルテ部門をデザインする合弁企業として買収された。


資金と生産工場の支援を受けたジル・サンダー&プラダは翌96年に数々の名誉賞に輝いたが、ベルテッリとは大喧嘩してプラダを辞めた。
ベルテッリは「ジルがいなくなっても売上高に問題はない」と強気だったが。
しかし、ジル・サンダーなきブランドは大損害を出し、ベルテッリが「停戦」を呼びかけて、ジルさんもデザイナーに一時復帰した。


結局、また2004年にベルテッリと衝突したジルさんはしばらく表舞台には出なかったが。
2009年にユニクロがジルさんの個人事務所と監修契約を取り付け、新ブランド「J+」を発売した。

ユニクロとの5年契約は2014年で満了したが、2020年秋に「+J」が復活するなど友好的関係は続いているようだ。



ジルさんが抜けたジル・サンダーは2006年にPRADAから投資ファンド企業に売却され、2009年から現在は日本のオンワード樫山に買収されている。
しかし、オンワードも主要ブランド「23区」が実店舗を大量閉鎖する経営危機にあえいでいる。
ここに人気ブランド「DIESEL」で高収益を維持しているOTB(ONLY THE BRAVE)グループが買収を持ちかけたのが今回の事情だ。
重ねていうが、今のジル・サンダーに77才のジルさん本人はいない。