◆前回のまとめ
◉チャペックさんのルーツは、東欧チェコ共和国から1880年までにミシガン湖周辺に移住した集団にあった。
(アメリカ合衆国・公式移民記録データ検索による)
◉チャペックさんの家庭には、「毎年一回、ディズニーランドに家族旅行する」というルールがあった。
これはチャペックさんの父母が熱心なディズニーファンだったからに間違いない。
◉チャペックさんは大学で微生物学を研究した。しかし、当時のアメリカはベトナム敗戦で長期不況にあり、転学してMBA(ビジネス経営学修士)を取得した。
◉最初に就職したのはケチャップメーカーのHEINZだった。
しかし、しばらくすると取引相手の広告代理業トップの[ウォルター・トムソン]にヘッドハントされ、レーガン景気にのって急拡大した[トイザらス]の広報を担当した。
◉すると[トイザらス]もチャペックさんの手腕に惚れ込み、再び転職。
すると当時、設立6年のディズニー子会社[ブエナビスタ・ホーム・エンターテイメント(BVHE)]がトイザらスのチャペックさんに、VHSビデオの映像ソフトの販売促進を申し入れてきた。
しかし、一方で同時期にピクサーが創業され、チャペックさんの転職時期から『トイストーリー』の製作が始まっていた。
いまはあまり語られないが。
チャペックさんとジョン・ラセターさんはまさに両輪のような関係だった。
◉ピクサーのトイストーリーがBVHEビデオの販売ルート開拓に大きく貢献したこと。
◉ピクサーの画像処理技術により、白雪姫、シンデレラなどディズニー映画の旧作品がデジタル化で画質が改善したこと。
BVHEはさっそく販売促進部門を独立させ、チャペックさんに社長を任せた。
ここで2005年の「ディズニー革命」を迎える。
それまで強権的な独裁者として辣腕を揮っていたマイケル・アイズナーCEOが退任した。
前会長ロイ・ディズニー2世ら創業家が株主たちを説得し、業績不振を理由に弾劾辞職に追い込んだのだ。

[アイズナーは悪役だった]
ディズニー創業家は、もともとウォルト・ディズニーの死後、娘婿のロン・ミラーさんが継承したが、人魚姫の現代版(若きトム・ハンクス主演)で半裸女性を出したことに、ウォルトの実兄ロイ・ディズニーが激怒。
ロイ兄の死後、ロイ・ディズニー2世が会長を引き受けるにあたり、パラマウント映画社長だったマイケル・アイズナーをCEOに迎え容れた経緯があった。
アイズナーはジョージ・ルーカスやスピルバーグを発掘し、パラマウント黄金期をつくりあげた名声で知られていた。
アイズナーCEOは最初は期待通りの仕事をした。
いまディズニーにインディジョーンズやスターウォーズのアトラクションがあるのは、アイズナーがパラマウントからCEO就任に持参した[おみやげ]なのだ。
ディズニーシー開園にも、アンバサダーホテルとアンフィニ・シアターを強引に売りつけた。
これはもともとロサンゼルス港の工場跡地に作られるはずの建物だ。
アイズナー独裁経営で多くのクリエイターや人材ディズニーを離れた。
ジョン・ラセターさんもその一人。
悪役アイズナーが失脚すると、彼は自分のイエスマンになるだろうという見込みで、
ディズニー系列ABCテレビのお天気キャスターだったロバート・アイガーさんを後継者に指名した。
しかし、アイガーさんはイエスマンではなかった。
アイズナーが退任すると、すでにディズニーを追い出された同僚たちと連絡し、ロイ2世ら株主たちとも連携し、アイズナー派の幹部たちを容赦なく切り捨てた。
これが2005年の「ディズニー革命」である。
アイガー革命といってもいい。
◆アイガー革命の旗手となったチャペックさん
2006年7月に、アイガーCEOは、子会社BVHEの改革にも着手。
実力で頭角をあらわしていた46歳のチャペックさんはホームビデオ部門のワールドワイドプレジデントに昇進した。
そのホームビデオの主力商品はもちろん、トイストーリー(1995年)に続き、
トイストーリー2(1999年)
モンスターズ・インク(2001年)
ファインディング・ニモ(2003年)
カーズ(2006年)で歴史的大ヒットを連発していたジョン・ラセターさん率いるピクサー作品だった。
つまり、2005年のアイガー革命の時点で、ディズニー本社のアニメ部門はほとんど不活発な状態にあり、収入の大半はピクサー作品の配給にある、というのが現実の姿だった。
アイガーCEOはここでさらなる決断をする。
スティーブ・ジョブズと交渉し、自社株式を交換する形で、ウォルト・ディズニーとピクサーを合併する。
これにより、ジョブズさんはウォルト・ディズニーの筆頭株主となった。
これにより、ロイ・ディズニー2世など、アイズナー反対派の経営干渉もシャットアウトされた。
この革命が現在のディズニー経営陣の基本型となったことを確認しておきたい。












