
今回の顔真卿展の公式テーマは、「顔真卿は王羲之に歴史的に勝利した」という判定決着だった。
古来、書道の楷書の見本は、王羲之の遺蹟から抜粋した[千字文]という教科書、
特に王羲之の筆法を最も正確に臨書した唐の欧陽詢(歌手の欧陽菲菲さんの先祖)の碑文が参考文献だった。
明朝から鎖国体制になった江戸時代の日本人は、楷書といえば欧陽詢だったわけ。
しかし、明朝の文化人は[王羲之の筆跡は実在しない]と反発をはじめ、古典の活字出版が最盛期になった康煕帝のころ成立した《明朝体》は顔真卿の碑文を参考に考案されたのだ、という。
確かに漢字フォントはみんな《明朝体》だ。
由来は知らなくても、名前はみんな知っている。
ここで私は思いついた。
それは高杉晋作の上海訪問の記録である。
この上海訪問の直前に、晋作が叔父に宛て決意の檄文を書き送っている。
そもそも彼は勉強嫌いだったが、生徒一人一人を個別指導した吉田松陰には心を開き、猛勉強に励んだ。
その成果が、この王羲之流の達筆に表れている。
高杉の記録によると、彼らはオランダ商館に保護された立場で上海を見物しており、当時、同地域に危機が迫った太平天国の暴動も実見。
アヘンの実態も目の当たりにした。
しかし、彼らは中国の知識階級たちに熱烈に歓迎された。
その理由は王羲之の筆法。
明朝体のルーチンに飽き飽きする上海の漢人たちは、半分馬鹿にしていた日本の若侍たちが、サラサラと鮮やかに欧陽詢草書を書き出すことに驚嘆したのた。
彼らを迎えた支え、それは書道だったのだ。
今回の顔真卿展では、大唐帝国の初期に名だたる書家たちが重用され、特に二代目の太宗の治世で、王羲之の書跡がすべて朝廷に集められ、書家たちが君命により、必死に書写学習されたという。
なぜたろうか。
大唐皇帝は、実は純粋な漢民族ではない。
むしろ北魏・隋王朝と同じ、遊牧民族の鮮卑・拓抜氏の流れ、と考えられている。
彼らが漢人と、その優秀な官僚たちを統制するために何が必要だったか。
それは皇帝の命令書、すなわち勅書が、漢人たちが崇拝する王羲之の生き写しの優美な書体で書き表せること。
書体こそ、漢人官僚組織を意のままに操縦する心理的な最高権威だったからだ。
唐の太宗は、そこにはっきりと確証をもった。
だから自分の墓に、王羲之の真筆を全て埋葬するという仕掛けを遺したのだ。
ただ、そこに落とし穴があった。
後に反乱を起こした安禄山や史思明らは、王羲之の筆法などまったく無縁なウイグル族だったからだ(笑)



