信長この辺にも来たってよ | == 肖蟲軒雑記 ==

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ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

大河ドラマ『おんな城主 直虎』も残すところあと2回。

48回では、武田を滅ぼした後、信長が帰洛途中に浜松に立ち寄るさまが描かれた。『信長公記』1によれば、この間の時系列は以下の通りである。

 

三月二十九日 所領割り当て沙汰 (第47回のラストシーン)

なお、この日既に信長が駿河・遠江を通って帰洛する予定が決まっていたと記されている。

四月三日 恵林寺焼亡

四月十日 甲府出立

 

紀行では富士宮浅間大社に滞在した様子が紹介されていたが、それは四月十二日のこと。この時の内容には沼津のことも記されているため、『沼津市史史料編古代・中世』に原文が載っている2

 

 

 

 

『信長公記』より(沼津市史史料編 古代・中世 610

 

(意訳)

412日、本栖を朝早く出発された。(もう夏のはずなのに)朝の寒さは真冬のようであった。(中略)

(信長公は)富士山をご覧になった、頂きに雪が積もり白雲のようであった。実に他に比べることのできない素晴らしい山である。(中略)

昔、源頼朝が狩りのための御殿を建てたと伝わる上井出丸山というところや西の山の白糸の瀧という名所があったので、このあたりのことを詳しく尋ねられ、(その後)浮島が原でしばらく馬を乗り回され、(宿所である)大宮(富士宮浅間宮)に入られた。(中略)

大宮は要害となっているところだったので、(家康は)社の内に御座所を準備していた。一泊用に過ぎないが金銀がちりばめられていて…

(後略)

 

 浅間神社の宿所については「紀行」でも紹介されていたが、私が注目するのは、「うき嶋が原にて御馬暫くめさせられ」というくだりである。本栖方面から南に下ると上井出地区や白糸の瀧があり、そこを通り過ぎると浅間宮である。富士見石はこの浅間宮近くの富士宮中央図書館近くにあるらしい。

 宿泊所はここに用意されていたのだが、富士山の眺望を楽しんだ後は、そこからずっと南、駿河湾沿いの富士・沼津へと下り、浮島ヶ原に来たということになる。そして、その後もう一度北に戻り浅間宮の宿所に泊まった。

 

 当時の浮島ヶ原の様子はこの古い記事でご紹介した絵よりはもう少し沼沢地が狭かったかもしれないが、いずれにしても、雄大な自然の中での乗馬を堪能したことだろう。

 

 またこれはどうでもよいことだが、記録では朝は冬のように寒かったとある。旧暦四月の初めは現在の暦ではおよそ5月の初めにあたる。「冬の最中のごと」き寒さがどの程度なのかは何とも言えないが、もしかするとこの年は時季外れの寒気団が入り込んでいた冷夏だったのかもしれない。もしそうなら六佐も風邪を引くのも無理からぬことであろう。

 

そして翌日、

 

 

 

『信長公記』より(沼津市史史料編 古代・中世 612) 

 

(大意)

413日、大宮(富士宮浅間宮)を朝方出発され、浮島が原から足高山(愛鷹山)を左手にご覧になり、富士川を渡って神原(蒲原)に着いた。(ここで家康は)茶屋を用意していたので、一献差し上げた。(信長公)は暫く馬を止めて案内者に和歌の名所のことをお尋ねになった。(湾を隔てた)対岸は伊豆の浦や妻良が﨑。こちらについては良くご存知だった。(そして)高国寺(興国寺)、吉原、三枚橋、かちょうめん(史料編では鐘突免という沼津駅北の地名に比定している)、天神川(天神ガ尾:東熊堂砦一帯の城砦か?)や、伊豆・相模の境にある深沢城などについてお尋ねになり…

(後略)

 

 

この13日は江尻(静岡市清水区)まで行くのだが、富士宮浅間宮の宿所を立った信長は、そのまま富士川に沿って南下せず、再度浮島が原に行っている(来ている)ことがわかる。景色がよほど気に入ったのだろうか。

 

 12日のうちは沼と島が点在する原野での乗馬を楽しみ、13日は「浮嶋が原より足高山左に御覧じ」になっている。浮嶋が原よりというニュアンスは、愛鷹山の麓に立って山を見ているというよりも遠望しているというような感じである。あくまでも天気が良ければの話だが、左手にある愛鷹山と(その向こうにある)富士山も見えるような所、すなわち沼の南側で、現在JR東海道本線東田子の浦駅もしかするともう少し足を伸ばして原駅のあたりまで、一旦は東向きに来ていたということも考えられそうだ。

 

 

 

 例えばこんな感じの景色である。これは、東田子の浦駅の北、国道一号線沿いにある浮島ヶ原自然公園から北東方向を望んで愛鷹山を撮ったものである(興国寺城趾は右端切れるあたり)。少なくともこのあたりまで来ていなければ、「足高山左に御覧じ」とはならないだろう。

 まあ、原駅というのは東に来すぎているとも思う。なぜなら蒲原まで行ったときに、この辺り一帯の城砦についてあれこれ尋ねているからだ。原駅近くまで来ているのなら、興国寺城は自ら検分していてもおかしくない。

 もっとも、本作の信長なら検分した後、しれっと「どうなっておるのじゃ?」などと尋ねることもありそうだが…

 

いずれにしても、「この辺」までは来ていたということは間違いないだろう。

 

最後に、この辺から信長が見た富士はこんな感じだったのではないだろうか。もちろん、矢印の先にある宝永火口だけはなかったわけであるが。

 

 

 

【参考文献】

1]信長公記(下)太田牛一著 榊山潤訳 原本現代訳 教育社(1980

2]沼津市史 史料編 古代・中世 (1996