「 如来の願心が 我一人に成就したのが 信心である 」

 

 

 

 

 

 

 

 

最近お葬式やご法事の簡略化が進み、勤めないという選択をする方も増えてきたと聞きますが、これは大変残念なことでございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

実は、どの仏事一つをとっても自分自身のためのことでございますが、最近はそのことをご存知ない方も多いことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、仏事を勤めるきっかけは、大切な方の死によってもたらされることが大半です。

 

 

 

 

 

 

 

 

手を合わせようとおもう大切な方がいるから手を合わせ、仏事を勤めようと思わせる大切ないのちがあるから仏事を勤めるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

そう考えますと、ご法事を勤めるのは他でもない、当家、親類である自分自身ですし、会場に足を運び、仏前に座り、合掌礼拝をするのも自分自身による行為です。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、なかなか仏前に座ろうと思わない私が仏前に座らされ、合わない手が合掌をし、下がらない頭が下がるのは自身の善心からではなく、姿形は無くとも仏事のご縁となった大切な方の「お育て」によるものでないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

もし「南無阿弥陀仏」と言ってみようかなという気持ちが起きたのならば、自分の心が決め、自分の意思で発しますが、長い年月をかけ育まれてきた仏縁によってもよおされたものであるといただくのが真宗的でございましょう。

 

 

 

 

 

 

 

仏さまの長きに渡るお育ての願心は、私一人のために「南無阿弥陀仏」というお言葉になって、私の口から出てきてくださったのです。

 

 

 

 

 

 

浄土真宗本願寺派 光妙寺  深親 亮介

 

 

 

 

 

 







『自力の念仏そのまんま 他力とわかる時がくる』 

(木村 無相)

 

 

 

 

 

 

長かった夏が終わり、お彼岸の時期になりました。

 

 

 

 

 

猛暑・大雨洪水・台風・地震・火山噴火と恐ろしいことが続いた夏でしたが、被害や影響を受けられた方がいらっしゃることでしょう。

 

 

 

 

 

各自、一応の備えはあっても、万全というわけにはいきません。

 

 

 

 

 

無事を祈りたい気持ちは自然なことですが、それも保障にはなりません。

 

 

 

 

 

「まさか」ということがあるのが人生と受け止めなければなりません。

 

 

 

 

 

ですから、人生の根本を、他人と較べて、勝った負けたに置いたのでは、不安やねたみが増すばかりで、他のいのちを傷つけ、自らを傷つけて迷いを深めることになります。

 

 

 

 

 

大切なことは、恵まれたいのちを精一杯生きているかどうか、他のいのちを活かしているかどうかではないでしょうか。

 

 

 

 

限りない光といのち、智慧と慈悲の阿弥陀如来さまは常に、私のいのちを気に掛け、喚びかけ、照らしていてくださいます。

 

 

 

 

 

その事になかなか気付かない私ですが、大きな出来事にであうと、ようやく、阿弥陀如来さまにお育てを受けてきたことに気が付きます。私一人のいのちではなかったのです。

 

 

 

 

 

そこから、お念佛の人生、往生浄土の人生が開かれます。

 

 

 

 

 

その上に、一時ひとときを大切にする生き方、さまざまないのちの繋がりを大切にする生き方を育ててゆきたいと思います。

 

 

 

 

 

~ あけぼのすぎ 浄土真宗一口法話  大谷光真 ~

 

 

 

 

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今月の言葉について

 

 

 

 

このページを訪ねて下さってありがとうございます。

 

 

 

 

このブログは大阪府池田市にあります浄土真宗本願寺派の寺院 照耀山 光妙寺のブログです。

 

 

 

 

兵庫県川西市へは歩いて30秒という、県境にある自然豊かな場所です。

 

 

 

 

さて、拙寺では毎月、今月の言葉と題しまして、浄土真宗本願寺派 本願寺(お西さん)の大谷光真前門主が著された「あけぼのすぎ 浄土真宗一口法話」のお言葉をご紹介しています。

 

 

 

 

この「あけぼのすぎ」は、私たちにわかりやすい言葉で語りかけられ、そのお言葉一つ一つに浄土真宗のぬくもりがたっぷりと込められています。

 

 

 

 

そのぬくもりが社会や個人をはじめ、あらゆるいのちへの「やさしさ」に変わっていくことを念じ、真に大切にしなければならないことを思い出すきっかけになればとおもっています。

 

 

 

 

別記事には、真宗教団連合から発行されております「法語カレンダー」のお言葉を私なりにお味わいさせていただいたページも掲載しておりまして、今月の言葉と同様に毎月更新しています。

 

 

 

 

若い浄土真宗の僧侶が、日常生活の中で感じることを、稚拙な文章で綴ったものですが、ご興味があればご一読ください。

 

 

 

 

称六字

 

 

 

 

追記

 

 

 

 

風邪を引いた身体には風邪薬を処方すればよいですが、私の心、いのちに関しての薬は一体どこにあるのでしょう。

 

 

 

 

どれだけ、医療が発達し、物質的に豊かになっても、私の心は取り繕うことはできません。

 

 

 

 

その心に働きかけるものが仏教であり、私のいのちの真の解決を促す薬として浄土真宗があり、その薬について一生涯研究、普及されたのが宗祖親鸞聖人でした。

 

 

 

 

私のいのちに関わること、その解決こそが本当のことであり、仏法聴聞こそが、心に作用する、本当のものを知る唯一の道でありましょう。

 

 

 

 







「 まぁ どこにおっても お慈悲の中だからのう 」

 

 

 

 

 

ここの「どこにおっても」といのは、単に私がどこにいるかという「場所」だけではなく、私の置かれた「状況」をあらわすものでしょう。

 

 

 

 

 

また、我々はついつい、こちら側の都合で、こちら側の都合に合わせたお慈悲を求めますが、そもそもお慈悲というのは、私に呼応して与えられるものではなく、良い時も悪い時も、常に「お慈悲の中」ですから、しばしばそのことを忘れがちです。

 

 

 

 

 

さて、私の友人で、幼少期、お父さんを事故で亡くしたA君という子がいます。

 

 

 

 

 

女手一つで育てられたA君は、「母へ恩返し」、その思いを胸に成長し、初めて職に就いたその初任給で、お母さんを温泉旅行に誘いました。

 

 

 

 

 

当日早朝、台所から大きな物音がし、お母さんと同居をしていましたから、胸騒ぎがし、急いで駆けつけてみると、そこには倒れているお母さんの姿がありました。

 

 

 

 

 

朝食の用意をしている最中に倒れたようで、そのまま緊急搬送、結果は重体で、この数日が山だ、という診断を受けました。

 

 

 

 

 

「まだ恩返しできていないのに」。A君は片時も病室から離れることなく、お母さんの看病に当たられました。

 

 

 

 

 

そして三日目の朝、なんと、お母さんが目を覚まされ、第一声、A君に向かって「朝ごはんちゃんと食べた?」と声をかけられたそうです。

 

 

 

 

 

死の淵をさまよってもなお、子を思う母の親心が胸に染みたということを聞きました。

 

 

 

 

 

浄土真宗では阿弥陀如来さまのことを「親さま」といい、阿弥陀如来さまのお慈悲を、母の「親心」と似ていることを聴聞いたしますが、結局、私の思いよりも先に、また、どこまでいっても、「どこにおってもお慈悲の中」であることを改めてお教えいただきました。

 

 

 

 

 

 

浄土真宗本願寺派 光妙寺  深親 亮介