「終戦記念日を考える」を整理する
昨日の終戦記念日のブログ、自分の中で整理するためにもう一度書きました。
自分の文章の下手さを痛感。
誰かがグラスを壁に投げつけて割ったとします。
なぜ、どういう理由で、何に対して、なぜ壁に、なぜそうしたのかの原因と理由があるはずです。
これを「グラスが割れた記念日」と表現したらどう感じるでしょうか。
サラッとしているのです、誰にも責任がないような言い方でほわんとしてるのです。
核心に触れず「誰のせいでもないよね、しょうがなかったよね」と丸くおさめる感じがするのです。
どうして戦争へ突き進み結果ボロボロになったのか。
子供の頃からの戦争教育や平和活動(デモや集会)の排除、
歌や芝居や映画や本などの数々の検閲、
近所同士で監視しあうシステム隣組、
空襲から逃げてはいけないという防空法など。
本当はたくさんお理由があってそこに行き着いたのだけれど、そこには触れない想像させない。
「誰のせいでもない」という言葉は誰も責任をとりません。
「誰のせいか」を考えることがとても大事なことだと思うのです。
「誰」というのは1人ではありません。
おかしいと思ったの黙ってた人、見てたのに知ってたのにスルーした人、そこにいた人達も「誰」に入ります。
「国が決めたことだからと黙っていたらこんな酷いことになるよ』という教訓を大事にしなければと思っています。
「終戦記念日」という言い方に違和感を感じずいられないのは、責任を背負ってない言い方だからなんですね。
整理できました、自分なりに。