太田天神山古墳 | 異界行

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オカルト歴ン10年の著者が、過去に行ってきたミステリースポットの調査内容を報告します。

もうどの道生活が成り立たず、遺言書作成のタイムリミットも近づいているので、開き直って矢継ぎ早に更新します。

今回は、前回の記事でも一部述べた「太田天神山古墳」について紹介します。訪れたのは、2013年11月5日です。

 

<太田天神山古墳>

群馬県太田市内ケ島町にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている(指定名称は「天神山古墳」)。
東日本では最大、全国では第28位の規模の古墳で、東日本では墳丘長が200メートルを超す唯一の古墳として知られる。別称を「男体山古墳」とも。(wikiより)

 

大昔、著者が中学生だった頃、日本史の教科書の巻頭にカラー写真入りで紹介されていて、田舎者コンプレックスの強い群馬県民としては「東日本最大級」という紹介に誇らしさを感じたものである。

Googleマップの航空写真より。

見ると、後円部を県道が横切っている。史跡を無視する都市計画がけしからん。

そして、車で調査に赴くにあたって事前に調査したところ、どうも正式な見学者用の駐車場が無い。

よくよく調べると、古墳から離れた分かり辛い場所にあるようだが、極めて不親切。そして、マップで見ると例の古墳を横切っている道の先にコンビニがある。とりあえず、車はそこに停めて古墳に徒歩で向かってみた。

ゆるキャラグランプリ全国1位のぐんまちゃんの案内板が道路上部に見える。しかし、

道造に古墳には着くものの、看板も案内板も入り口すら無い。

仕方ないので、道路から直接侵入してみる。

案の定、全く整備されておらず、歩き辛いことこの上ない。

ようやく、初案内板発見。ここが本来の登り口なのであろう。(そもそも古墳は登るためのものではない)

鳥居と細い石段、奥に祠が見える。

登り切った先の祠。前方部と後円部の鞍部にある。例によって隙間にカメラをねじ込んで内部を撮影。

ただの小さな神社である。天神山古墳という名称からして、天神様を祀る天神社であろう。

祠背後の古墳上部の前方部や後円部を探索してみるも、木々が茂り放題の盛り土にすぎない。

 

一応、史跡を意味する石碑は立っているが、それだけである。

これなどは、当時の葺石の名残りだろうか?

西日が酷いが、先ほどの鳥居に向かうここが本来の参道(=古墳入り口)であろう。しかし、

「立入禁止」の札。どういうことだ?

おまけに、これだけの古墳でありながら石室が見当たらない。wikiによれば、後円部に竪穴式の石室がある可能性があるとのことだが、未だに未調査であるらしい。さらには、古い時代に盗掘があった形跡もあるとのこと。

結局、目ぼしい成果も得られぬまま、この立入禁止の道を逆行して古墳を去る。その先は、古い一戸建てのアパートが立ち並ぶ寂しい住宅地であった。その一角に空き地らしきものもあるので、車はここに停められるのかもしれないが、私有地だったりすると面倒くさい。

東日本最大の墳丘を誇りながら、何ともお粗末な現状である。あまり公園風に復元されているのも魔改造のようで好きではないが、ここまで何もされていないのも考え物である。案内板や説明書きもほとんどな無い。群馬県内は古墳が多く、それぞれに復元整備されて資料館なども併設されているものだが、ここには一切無い。もちろん、訪れている人間も著者以外に誰もいない。

 

その後、車を停めたコンビニの隣にもう一つ古墳「女体山古墳」に向かった。天神山古墳から徒歩5分もかからない距離で、両者は関係の深い古墳であるようだ。

そしてこちらも荒れ放題。この案内板の前に行くのもほとんど道が無く、手前にスペースも無い。

体を斜めにして案内板を撮影する。ここは、前回の記事にも書いた「帆立貝形古墳」である。と言うより、その代表格らしい。

同じく史跡を示す碑は立っているが、御覧の通りまともにスペースが無い。

墳丘上も荒れ放題で歩き辛い。

こちらには神社は無いが、小さな石祠があった。

最後に、遠景を撮影して去ることにした。車を停めたコンビニには駐車場代としてコーヒー1杯を購入した。

 

上述のように県内の古墳はそれなりに整備されているものだが、この両古墳がこのような状態なのは、群馬県ではなく太田市の文化財保護意識が極めて低いということだろう。

しかし、現在整備されていなくとも、東日本最大規模であることに変わりはない。

wikiよりスペックを転載してみる。

・古墳全域
長軸長さ:364メートル
後円部側幅:288メートル
前方部側幅:242メートル
・墳丘
墳丘長:210メートル
後円部 - 3段築成。
直径:120メートル
墳頂部平坦面直径:24メートル
高さ:16.5メートル
・前方部 - 3段築成。
前端幅:126メートル
高さ:約12メートル・
内堀 - 楯形。最深で1.2メートル。
後円部後方:幅36メートル
前方部前面:幅24メートル
・中堤(ちゅうてい)
後円部後方:幅31メートル
前方部前面:幅24メートル
・外堀 - 馬蹄形。
後円部後方:幅9メートル
くびれ部側方:幅17メートル
前方部前面:幅6メートル

ちなみに、大阪の応神天皇陵(墳丘の大きさは日本最大)の2分の1の相似形であるらしい。

 

なお、ここでもまたこれだけの規模の古墳を作った埋葬者が何者かという問題がある。これまた、上毛野氏および毛野政権ということだろう。群馬には各地域で同規模の豪族が割拠した(大室古墳群・保渡田古墳群・白石古墳群など)。この内、大室古墳群はすでに記事にしているが、残りの二つももちろん訪問済みなので、いずれ記事にしたい。

しかし、これだけ古墳群が存在するとなると、埼玉のさきたま古墳群(こちらも数度訪問済み)も含め、やはりここは大和政権とは別の東国の中心地であり、狗奴国ではなかったのかと思えてくる。

しかし、前方後円墳は大和政権のシンボルでもあるので、一概にそうとも言えないが。上述の応神天皇陵との関連もあるし。

 

繰り返しになるが、この規模の古墳がまともに整備されていないのは本当に残念である。

なので、次回は整備されまくっている「保渡田古墳群」を紹介したいと思う。