名護屋城②(佐賀県) | おおとり駆の城日記

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子供の頃からお城好き 今までに巡ったお城の感想 その他どうでもいい趣味のことなどあれこれ綴っていきます

名護屋城訪問レポートその2です。

それではいよいよ本丸に向かいます。


本丸大手

城内最大規模の枡形です。石垣の上には2層の櫓が建ち、この正面あたりに巨大な櫓門がありました。

ここに建っていた二層の豪華な櫓門は廃城後、伊達政宗の仙台城に移築されたという説があります。その仙台城の大手門は太平洋戦争で焼失する昭和20年まで現存していました。


本丸

本丸の広さは東西130m、南北125mで、中央には本丸御殿が、西北の隅には天守が置かれていました。

本丸からは当時の礎石や玉砂利のほか、多数の瓦や日用品などが出土しています。


本丸御殿VR


天守VR


石碑その1

本丸跡の中央にそびえ建つ巨大な石碑。

逆光で見ずらいですが、「名護屋城址」と書かれています。

日露戦争の連合艦隊司令官として有名な東郷平八郎による書です。


石碑その2

本丸の端に海に面して建っている句碑です。「太閤が 睨みし海の 霞かな」

昭和8年にここを訪れた正岡子規門下の青木月斗(あおきげっと)という俳人が詠んだ句です。

秀吉はこの海を睨みながらどんな野望をいだいていたのでしょうか。


天守台

かつて五層七階、高さ約30mの天守がそびえていました。

横から見ると石垣も徹底的に崩されて土塁が丸見えになっています。




天守台跡

「名護屋城天主臺址」の石碑が建っています。(臺は台の旧字)天守台の中央には玉砂利が敷かれ、礎石も一部復元されています。

他に穴蔵への出入口などが確認されています。


天守台からの眺め


本丸多聞櫓跡 

発掘調査により、全長55mの巨大な建物だったことが判明しています。

大量の瓦も発掘されました。


遊撃丸

本丸の真下にある曲輪で、文禄2年(1593)に明国の講和使節沈惟敬が遊撃将軍と呼ばれていたことから名づけられたとの説がありますが、なぜ敵軍の将軍の名前をつけたかは不明です。

ここからは天守の金箔瓦が発見されています。


二の丸

遊撃丸の南は二の丸、さらに南に弾正丸が構えられています。

二の丸は武器や兵糧を納めた建物があった場所といわれています。

通常は本丸に通じる第二の曲輪ですが、名護屋城の二の丸は三の丸を経由しないと本丸に行けません。

弾正丸は、五奉行の一人浅野長政が居住していたので、その名にちなんでつけられたといわれています。


では、本丸を降りて搦手方面を少し探索します。


水手口

この地域は水源が少なく、井戸を掘っても水の確保に苦労したといいます。

そのため城内に貯水池を造って雨水を溜め、使用していたといいます。

この建物は茶室ではなくトイレでした。


遊撃丸

さきほど天守台から見下ろした遊撃丸から逆に天守台を見上げます。


VRで見上げる天守


伝馬場

二の丸を経由して本丸の南側、三の丸との間にある伝馬場といわれる細長い曲輪にきました。

一般的には馬場とは馬の訓練をするところですあ、その割には通路並みに幅が狭いです。

こちら側の石垣もやはりあちこち崩されています。


VRで見る馬場


三の丸櫓台

馬場から三ノ丸に抜ける右には櫓台跡がありました。

城内最大規模の櫓台で石垣には名護屋城最大といわれる鏡石(巨石)が埋め込まれています。


大手口へ戻って城内探索は終了。

午前中唐津城も歩き回ったせいで、すでに足が棒。山里丸や台所丸までは回れませんでした。


周辺には大名たちの陣屋跡があります。


黒田長政陣跡

主要な武将の陣跡には人気ゲーム「信長の野望」とコラボしたビジュアルサインが設置されています。

陣屋跡といいいながら、小規模な城のように土塁や石垣が残されているところもあります。

中には私有地になっているところもあるので見学には注意が必要です。


前田利家陣跡

交差点の名前になっているところがすごい!


伊達政宗陣跡

東北から九州までは遠かったでしょうね。


広大な名護屋城跡、城内だけでなく、大名陣屋跡まで含めるととてつもない広さがあり、しっかり全体を見るには丸一日かかりそうです。

アクセスはなかなか困難ですが、お城ファンなら是非いつかは訪れていただきたいお城です。



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